馬関名物「ふくのフクロ競り」 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

下関と言えばフグ。

下関では、縁起を担いで「ふく」と呼びます(^∇^)

下関では、ふくをデザインしたものをあちこちで見かけます。

 

そして、今年はふく食解禁130周年だそうです。

 

 

そもそも、ふくを食べることを禁止したのは、豊臣秀吉です。

1592年~1593年の文禄の役の時、

肥前名護屋城に向かう際に下関に立ち寄った武士たちが、

ふくを食べて次々に死亡しました。

そのため、秀吉はふく食を禁止したとのことです。

そのふく食の禁止は江戸時代にも続き、

長州藩では、ふくを食べて死亡した場合は

お家断絶となったそうです。

 

しかし、実際には、ふくは陰で食べられていたようです。

ただ、吉田松陰は、「武士がふくの毒で死ぬのは恥」として、

ふくを食べなかったそうです。

また、山県有朋も、奇兵隊で他の隊士がふく鍋を食べる中、

1人別に鯛鍋を食べていたそうです。

その様子を見ていた高杉晋作も、

有朋と鯛鍋を食べるようになったそうです。

 

その後、明治時代に入り、明治20年(1887年)のこと。

時の首相・伊藤博文が下関の旅館・春帆楼に宿泊しました。

しかし、その日は荒天により魚がありませんでした。

やむなく、女将の藤野みちは、打ち首になることを覚悟で、

ふくを出しました。

その美味しさから、博文は翌明治21年(1888年)に、

山口県知事・原保太郎に命じ、ふく食を解禁したのです。

 

 

 

 

唐戸市場海側に建てられている

「馬関名物『ふくのフクロ競り』」の像です。

「馬関」とは下関のこと。

下関の昔の呼び名「赤間関(あかまがせき)」を

「赤馬関」とも書いたことに由来するそうです。

 

 

「フクロ競り」は、下関・南風泊市場で行われる競りの方法で、

仲卸人が競り人の指を袋の中で握ることで、

金額を示していくものです。

 

 

像は平成16年(2004年)に建てられました。

 

 

場所はこちらです。