とにかく親子二人、生きるのに必死でした。 子供はだんだんと片言の言葉を喋るようになりました。また顔つきも幼いながら丹精な父親に似てきました。 仕事で理不尽な事を言う客がいても日々父親に似て来る幼い我が子を見ていると照代は嫌な事もすぐに忘れられました😊

照代は自分の中から出てきた、小さな自分と信二の分身にこんなに生きる力を貰えられるとは思ってもいませんでした☺️

産まない選択をしなくてよかったと心から思いました。近くには同じ娼館に住んでいた女性もいます。その人たちもだんだんと信二に似て来る照代の子供を見て命の成長をダイレクトに感じ涙する者もいました😊

混沌とした時代でしたが貧しい女達も自力で力強く生きようとしていました❗️

そんなある日、盛場の女性が咳き込み血を吐きました。 その女性は店の奥の日の当たらない部屋に寝かされ翌日医師の診察を強制的に受けさせられました。結核でした。当時貧しい人々は療養所には行けず皆、同じ場所で寝さされていました。食事も一日一回、握り飯1つくらいのものでした。1951年に結核によく効く新薬が発明されるまで結核は命に関わる大変な病気でした。療養さえすれば治る人もいました。ですが盛場で働く女達に療養所に行くようなお金はありません。狭い部屋ぬ寝かされて最期の時を待つだけという悲しい状態でした。

うつる病気なので握り飯を運ぶ当番以外、誰もその部屋には近づきませんでした。 時々、このような事が起き、敗戦国の惨めさを感じる照代達でした。戦争中より食糧事情は良くなっていました。でも長く食糧不足の時を過ごしていたので体力が衰えている人も比較的多くいました。

🍀ここまで読んで下さってありがとうございました。🍀

今回は早く記事アップ⤴️しようと思っておりましたが高松ジェンヌコンサートの練習がハードだった事、それでも張り切って練習しすぎて・・・久しぶりに扁桃腺が腫れて何日か寝込むという事態に陥ってしまいました💦😓

自分の年齢も考えず突っ走り、ブログ記事アップ⤴️が遅れた事、お詫び申し上げます😞🙇‍♀️🙏

高松ジェンヌコンサートでは一度着てみたかった燕尾服🤵‍♀️を着ます。(ちょっと興奮🤩)また人生初のタップに挑戦します。難し過ぎてタップの曲♫が夢に出て正直うなされるような状態です😓
(情けない😅)

泣いても笑っても1週間後には終わっています。
後悔の無いよう練習に励みます。

その後は定期的に記事アップ⤴️に取り組みます🍀皆様どうか、照代、そして照代の息子がこの先どうなるか・・・お付き合い願います🤲🤲