ホテルを出るとき、誰に見られているかわからないとバッチをとりポケットにしまった。
あいつはそれを見て楽しそうに笑いやがった。バカにされているのが感じられて悔しくて、事務所まで送ると言うのを拒否して最寄り駅で降ろしてもらったんだ。
そうか、あのときからずっとバッチはポケットに入れっぱなし。コーヒーを淹れるために上着を脱いだ拍子に転がったか。
「自己紹介した方がよろしいですよね。ボクはみや」
「あー、そういうのいらない。おれ一番嫌いなの。秩序とか正論とかってのがむり。だから、自己紹介なんて必要ないわ。
ね!……あ……でも、呼び名がわかんね」
鋭いのか惚けているのか両方なのか……すべては計算されているような気がして背中に汗が垂れる。覚られるな、戦い……取引はもう始まっている。
「あなたの、失礼お名前がわからないのでこの呼称を使いますが、あなたの作品には秩序とか正論とかそういったものが無いということは、芸術に疎いボクにもわかりますから。
作品は作者を映す鏡なんでしょう?」
「んふー、わかったよーなこというねー」
とろんとした声。でも続く声は違った。
「机上でしかモノを考えられない奴に、おれの作品を語って欲しくない。不愉快だよ。
用があるのがここの主人なら、コーヒーの礼は言うけどさっさと目の前からいなくなって」
ゾクゾクする。
この感覚、以前にも『誰か』に感じたけどそれともまたちょっと違う。
いい、サイコー。この人のこともっと知りたい。
「気が変わりました、あなたと話がしたい。ここのオーナーさんという人、形骸でしょう?」
「どうしてそーおもうの?」
ふふ、またそうやって口調を戻して煙に巻こうとしてるけどもう騙されない。
「さあ、どうしてかなー?
あ、さっき『わかったようなこと』と言いましたけど、芸術に関しては素人ですが料理に関しては玄人裸足なので作品が自分を映すという感覚はわかるんです。料理の味が伝えてきますからね」
ぽかんと口を開けてオレを見る。
どうだ!と思った瞬間、
「くっ!ぷはははっ!はははっ!ひーっ!おっかしー!あひゃぁっ!腹が、腹がよじれるぅっ!ひーっ!はははっ!はははっ!はははっ!」
大爆笑された。
また、煙に巻かれる。
けれどもう二度目、そう簡単には逃がさない。
「ボクが料理をするのが以外ですか?それとも、ホワイトカラーの趣味ごときを自分の芸術と比べるほど思い上がったやつとでも?」
「んふ、んふふ、んふふふ。
もうダメー、これ以上はムリー。かわいくってかわいくって翔くんの獲物だってわかってても手を出したくなっちゃった」
え?『しょうくん』?
「あはは、それは困るよ智くん。あなたはあなたで俺には無い魅力があるんだから。横入りはダメだよ、手を出さないでね」
キッチンの奥、店へと続く道だろうか薄暗いその先から、笑いながら出てきたのは……、
「ここにたどり着いたのは誉めてあげる。一歩二宮の無罪に繋がったね、大翔」
さっき別れたはずの、櫻井だった。