もういいだろう、と思うまでに、マリーのピアノを聴く耳が育ったのはここに住み着いてから5年が経とうとしていた。
よかった、間に合った。
『夫人、今度の日曜礼拝の後、マリーを連れて街まで行っても来まいませんか?』
「構わないけどなぜ?」
『マリーの為にチューニングハンマーと音叉を買ってあげたいんです』
「マリーはあなたのお眼鏡にかなったの?」
『普通のピアノではまだもう少し音に慣れる必要があります。
けれど、彼女がこの街で暮らしていくうえで、あのパイプオルガンの調律の方法はもう大丈夫だと思います。
そうして子々孫々にまでその音を響かせ続けられるでしょう』
「その道具は、そのための最終試験に必要なのかしら?」
『試験だなんて、そんなつもりはありませんよ』
「ふふ、あの子があなたと出かけられることに浮かれ過ぎないようにちゃんと見張っていてね。
すぐに暴走するから、ふふふ」
『迷子にはさせません。
それと……その夜にオーケストラを聴きに行っても構いませんか?
やっと取れたチケットなのですが、マリーのこれからのためにもなると思うし、それに……』
「それに?」
『ボク一人では躊躇してしまうかもしれない。
聴きたい気持ちで一杯なんですが、怖いんです』
「怖い?」
『はい』
「そう。では、マリーを連れて行ってあげてくださるかしら。
あの子ちゃんとしたピアノを聞いたことすら無いから、今後のためにもなるものね」
ニコっと笑ったロッソ夫人はそれ以上何も詮索はしなかった。
怖い。
そう、怖いんだ。
だって、そのオーケストラでピアノを弾くのは翔様だから。
二度とお目にかかるつもりはなかったのに、マリーのために探していたプログラムのオケに翔様の名前があった。
それを見た瞬間から何も考えず、そのチケットを取っていた。
目が見えるようになった翔様の演奏はどうかわってのだろう?
前と違う演奏をするのではないかな?
目が見えるようになって得た知識はきっと膨大なものだろうから。
とても素敵な演奏を聴ける。
ボクが言葉を発しなければ、絶対に分かるはずはない。
どうか最後にあなたの演奏を聴かせてください。
あなたが幸せでさえあればいいのです。
ピアノの音は確実にボクに伝えてくれます。
ごめんね、マリー、キミのことを使って。
でも、どうしても翔様の今のお姿とピアノの音を聴きたいんだ。
もう、手に届かない美しく高貴な花。
あなたを感じたいんです!
その場を辞して部屋のベッドに流れ込む。
翔様はちゃんと目がお見えになったんだよね?
オーケストラに入るのはそれが必須条件だって行ってたから。
でも、おめでとうと言う術はないしあったとしても言ってはいけないけれど、遠くから、ほんの少しだけ、ほんの少しだけでいいからお姿が見たい。
今回のオーケストラはピアノがメインなんですよね、翔様。
ということは、こちらで認められるために相当の努力をしていらっしゃったはず。
どんなふうにピアノをお弾きになりますか?
どんな翔様を見られますか?
ボクは、多分来年の冬は越せません。
あなたを見たら、そっとここを離れるつもりです。
幸せな姿を見たら……サヨナラをこの世にしようと思います。
胸元の【あれ】が熱い。
帰ってこいと、そして命を長らえろと言っているのがわかる。
でも、ボクはそうしない。
【あれ】が言っている。
われのところに帰ってくれば短い命も永らえられると。
でも、そうしてとうなる?
囚われたままで生きるのならば、このまま命が燃え尽くすまで自由でいたい。
翔様だけのことを考えて、眠りにつきたいんだ。