ж 47 ж スイ睡 睡ララッタ 

 



     チョイト一線区の つもりで乗って
     いつの間にやら 乗りつぶし
     気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
     これじゃからだに いいわきゃないよ
     分かっちゃいるけど やめられねえ
 この話は禁忌であった。それは鉄道趣味者のみならず一般人でも行っていた事ではあるが、公に認められたものではなく、故に書いてはならぬものであった。
 少なくともこのホームページを始めた頃はそう思っていた。
 しかし、昨今多くのメディアで平然とあたかも公認であるかのようにこの行為が紹介されるにあたって、私も考えを変えた。「ならば波に乗ってやろうではないか。ちと出遅れ感はあるが。」
 という訳で今回はその羅列である。
 さて、私の場合。
 どの程度をもってそれとするかの定義は難しい所ではあるが、深夜の夜行列車で到着し、始発までの3時間あまりを過すというあいまいなものを含めればその数は24になる。
 この数字はその手の人にとってみれば微々たるものではあろうが、それぞれに結構思い出があって私の中では重きに属する方であろう。
 傾向的には、安心感ある有人から始まり、後に許可を得る煩わしさから無人へと移行している。
 また季節は圧倒的に夏が多く、12月から2月の厳冬期体験は無い。
 初めてのそれは九州であった。
 その計画を伝えられた両親は大反対をした。若干16歳の私の無謀とも思える行為。当然である。
 どのようにして説得したのか、押し切ったのかは記憶にないが、1978年8月のある日の19時近くに到着し、そのまま翌日の11時まで16時間あまり滞在した。
 かように無為とも思える長時間滞在をしたのは九州の特急列車を撮影したかったからであって、いわば上野で撮影の為に一日中過していたのと同じ感覚である。
 夜が更けるにつれ喧騒は静まっていき、夜行列車が出てしまうと人影は無くなってしまったが、その後最終の普通列車が到着するとそのうちの旅行者とは思えない数人がそのまま居座り共に夜明かしとなった。
 これが恒常的な事であったのか、回送される普通列車を見送った職員はそのまま姿を消し、明りが消される事もなく、少し拍子抜けするような一夜であった。
 しかし、完全に不安が払拭される事は無く、時折ウロウロする見知らぬ人たちやベンチが近郊型 (長椅子タイプではなく1人分ずつになっていて、FRPか何かの樹脂でできているもの。シェルチェア? セットベンチ? 正式名称が解らないのでとりあえず近郊型と呼ばせてもらおう。ご存知の方がいらっしゃったらぜひ御教授を。) であったという事も相まって、ゆっくり休む事は出来なかった。
 2回目は中京。深夜に寝台特急が分割併合される所を見たかった。
 この寝台特急は下りは運転停車(停まるが客扱いはしない)だが、上りは普通に乗降可能で時刻表にもしっかりと発着時間が書かれていた。
 その列車の到着は0:24。発車は1:00。数人の人達とホーム待合室でその時刻を待った。
 正直、こんな時間で利用する客がいるとは思っていなかった。終点東京まで乗っても5時間ほどしか眠れない。もしかすると夜明かし仲間かもしれない。
 が、程なくしてやはり皆寝台列車利用客と知った。
 その日は雨の影響で夜行列車のダイヤが乱れていた。到着がだいぶ遅くなるらしい。しかも併結される片方は運休となってしまった。
 手持無沙汰だったので夜食にと仕入れていた弁当を食べていると職員が現われて遅れの詫びを告げると各人の乗車列車を訪ね始めた。運休となってしまった方の寝台券を持っている人を他方に振り分けるためである。
 私の番が来た。そこで翌日の午前中の列車名を告げると「エッ」と一瞬絶句。そして「ここでは泊れません」と。
 これは困った事になった。箸を動かす手を停めて、「さて、どうしよう」と考え始めたら「でも、お弁当食べてるんじゃしょうがないね」と理由にもならない理由でここから外へ出ないという確約のもと許可をもらえた。その後は周りの人の目が少々痛かったが、件の列車が出てしまえば待合室は宿の一室となった。
 静まり返った部屋で横になっているとカサカサと小さな音がする。そのほうを見やれば、ネズミが弁当ガラをあさっていた。
 後年訪れるとその木造待合室は無くなっていた。私の様な者がいたからなのではないかと少々心が痛む。   
 ここは近年完全追い出しで有名になってしまったが、それは今に始まった事ではなく私がふらふらしていた時代でも基本的には不可な行為であって、宿泊を断られるケースがあるにはあった。
 だが幸いと言って良いかどうか解らないが、追い出されて一晩中町を彷徨うという事態になった事は無い。ふたつのパターンで救われている。
 1つは強引パターン。
 終列車で23時30分ごろ到着。そのままホーム待合室に落ち着くとすぐさま職員がやって来た。「出て行ってくれ」。
 すると、同じ目的で待合室にいた見知らぬ関西の学生が猛然とまくしたてた。
 「明日の始発に乗るんや!雨も降ってるしこんな時間から宿さがしも出来んやろ!」
 この勢いにしぶしぶ許可とあいなった。
 もうひとつは、たてまえ温情パターン。
 宿泊を頼むとかたくなに拒否。仕方なく外へ出て軒下に腰を降ろす。多くの下車した人たちは迎えの車や徒歩ですぐにその姿を消してひっそり。やがて明りも消されて暗がりに取り残されたような不安な一夜が始まった。
 が、辺りに人がいなくなったのを見計らったように少し戸が開けられてチョイチヨィと手招き。
 これとは逆に私が追い出しをした事もある。
 北国の小さな待合室。秋の始めで昼こそ汗をかく暑さではあっても夜ともなると寝袋が快適な寝床となるほど気温は下がる。
 一緒に足を降ろした客が待合室に入る私を不審そうに眺めつつすぐに姿を消したので早々に就寝。まれに貨物列車が通過するが、それ以外は静かな夜になるはずであった。
 ところが横になってしばらくすると部屋いっぱいに響き渡るコオロギの声。
 耳を塞ぐようにしてなんとか眠ろうとしていると鳴きやんで静かになるのでやれやれとくつろぎモードになると又鳴き出す。これを何度か繰り返すうちに我慢の限界を越え対処することとした。
 まずは居所を探す。声が反響して音源特定が難しい上に私が少し動くと鳴きやんでしまう。じっとしているとまた鳴き出すので、少し進んでは待つという地道な作業を続ける。そのかいあって、ついに住処が入口扉敷居とコンクリート三和土の間にできた隙間とつきとめた。
 さて、それからが主たる作業である。
 隙間は狭く指は入らない。木の枝を拾ってきてつついてみたが、内はほらほら、外はすぶすぶ、になっているのか、逃げ出して来ない。
 そこで炭酸飲料を買ってきて隙間に流し込んでみた。これは成功。すぐに大きなやつがピョンと飛び出してきてそのまま開けてあった扉から外へと姿を消した。
 後から割り込んできて先住者を追い出すのは申し訳なかったが、ピッシリと閉められた待合室に洩れ入る彼とその仲間の歌声は程良いBGMとなって心地よい夜を過ごす事が出来た。
 虫と言えばもう一つ厄介なものがいた。蚊である。
 これがいるともう熟睡は出来ない。チクリと刺されるたびにそのあたりをピシャリと叩くが、まず撃墜はには至らず追い払うがせいぜいで、1匹の蚊に何か所も刺されてしまう結果を招く。寝袋に頭までスッポリと入ってしまい鼻のあたりだけほんの少し開けておいてという方法をとった事もあるが、これだと蚊の攻撃は防げも息苦しさと暑さでやはり眠れない。
 こんな悶絶模様を見かねたのか、そもそも蚊が多く常備だったのか、蚊取り線香のサービスを受けた事もある。これはありがたかった。
 突き刺さって痛かったものがもう1つ。それは人の目である。
 近隣の観光地へバスで行き、徒歩で「終バスに乗り遅れてしまったので終列車にも間に合いませんでした」、という感じで戻る。その距離8㎞程。
 その疲れのせいか、春はあけぼののせいか熟睡。ふとざわつきに目を覚ますとどうやらすでに待合室は始発を待つ人で一杯になっていたようだ。
 「ようだ」というのは、目を覚ましてすぐ寝過ごしに気づいたものの、そこにいる人たちの「なんだあれ」という雰囲気で朝の会話のネタになっていたので、恥ずかしくてタヌキ寝入りを決め込んでしまったからである。
 本来であれば即座に起きてベンチスペースを開けるべきであったが、若気の至り、始発が出て静かになるまで寝袋の中でじっとしていた。
 寝袋は常に持ち歩くように心がけていた。無論1泊程度で天候がはっきりしていれば無用と判断した場合も多いが、長期の場合は必ずリュックの上にくくりつけて行った。
 夏でも雨に降られたりするとかなり冷え込む。寒くて一睡もできない、という事態にもなりかねない。
 と言えるのはそういう事態になった事があるからである。
 それは初めて夏以外の季節、5月連休に敢行した時の事であった。
 出発時にはよい天気で途中は列車の窓を開けてすがすがしい風を体いっぱいに浴びていられたのに、夕刻には曇って来て目的地に着いた時はしとしととした雨となった。(これは天候が悪くなったのではなく、天候が悪い地域へ移動したという事であり、かつ、その地方の天気予報の確認を怠っていた)
 そこは密閉性の良い待合室ではあったが薄っぺらな上着は全く役に立たず、体を小さく丸めて寒さに耐える一夜となった。
 ごみ箱から新聞紙を拾って掛け布団にしてみたが、空気よりもベンチに吸い取られる体温の方が多く、ならばと敷布団に変えてみたが、とても横になってはいられない。結局座ったまま膝を抱えるようにして朝を待った。
 翌日、その晩に備えて途中の街でスポーツ用品店に立ち寄り寝袋を求めようとしたが予算が足りなかったので代わりにシュラフカバーを購入した。しかし、これも所詮カバーであってペラペラ化学繊維はいくらかマシ程度にしか役に立たなかった。
 これに懲りて次の旅行ではしっかりスリーシーズン寝袋を用意し、夏季以外はエンソライトマットも携帯するようになった。
 寝酒を一杯ひっかけてぬくぬくの寝袋に潜り込むのは最高の気分だ。その日の事を思い出したり、明日行くところに思いをはせたりしているうちに熟睡。
 装備がしっかりしていればもうなんの心配もない。
 とはならないのもこの宿の特徴であろう。どんなに準備万端であっても決して心安らぐ宿にはならない。
 それはこの宿が予約は出来ないというところから始まる。つまり横になるまで今宵の寝床が確保できていないという不安感である。
 終列車ともなればそもそも乗っている人は少なく寂しさがあるものだ。そしてその数少ない乗客にはどんなにさびしい所で下車したとしてもその先には安堵の場所があるというのに私には無い。ほっとした様な表情の人たちがポツポツと降りて行き車内はますます寂しくなっていき、心細さはそれに比例して大きくなってくる。
 初期においては有人の所を常としていたので、いざ着いたはいいが断られたらどうしようという不安が次第に大きくなっていって列車旅を楽しむ心境ではなくなってくる。
 無人地を目指す時は、当時その情報は無かったので、行き当たりばったりである。
 終列車に乗ったらいちばん前のデッキに陣取る。構内に入ったら左右を忙しくチェックし、適した施設があるかどうかを探す。ホームに小さな待合室が。さあ、どうする。次へ行けばもっといいのがあるかもしれない。いや、ここを逃したらもうないかも。停車時間は短く思案の間はいくらもない。意を決して一歩を踏み出す。目的の部屋へ入ってみたら壁一面にスプレーで書きなぐられた文字や記号だらけ。しまった!。しかし、もう移動のすべはない。小さく体を丸め、ちょっとの物音にもびくびくしながら早く夜が明けてくれと祈る。
 有人地では仕事をしている人がいる傍らで先に寝てしまっては申し訳ないように思うが、かと言っていつまでも起きていると待合室の電気を消すに消せないであろうから、とっとと寝袋に入る。が、事務室からはその日のまとめ作業をしている様子が伝わって来てなかなか寝付けない。明りが消えるのはかなり遅くなってからだ。また、夜中にふと目を覚ましても、自販機を利用したり、では深夜の街を散策してみるか、という事は出来ない。戸の開け閉めの音などで宿直職員のわずかな休憩時間を邪魔する訳にはいかないからだ。治安の心配はないがそれでもやはり思う。早く朝になってくれ。
 そんな思いで迎えた早暁は格別の感がある。多少寝不足ではあるがその日の力がムクムクと湧きあがり、やがて朝日と共に始発列車が私を迎えに来る。
 座席に落ち着き、去りゆく一夜の宿を感謝の念を込めて見送る。名残惜しさを引きずって。


 ところで最近は羽田空港で空寝が出来るらしい。これは公認で航空券を持っていなくても泊れるのであろうか。であれば東京乗りつぶしの時に使える。
 かも…… 
 

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