<サクラリンリン                                         4月8日>

ж 46 ж 車窓はテレビより退屈だ

 投稿日時 2015/4/5(日) 午前 6:19  書庫 鉄道の間  カテゴリー 鉄道、列車
 




 JR水郡線は水戸と郡山(正確には安積永盛)を結ぶ140㎞程のローカル線である。
 この路線に初めて乗ったのは1979年。以後ずっとお見限りをしてきたが、今年初頭、35年ぶりに訪れてみた。
 さすがにこれだけの年月が流れてしまうと車両も沿線風景もがらりと変わって初めて訪れる路線のようで、その車窓は新鮮なものであった。
 と、言いたい所ではあるが、正直、大昔に乗ったこの路線の記憶は全くと言ってよいほど無い。ただ1つよく覚えているのは谷間を抜けてから水戸までがとても退屈で「早く着かないかなー」と思っていた事だけである。なので、実質今回は初乗りに等しく沿線風景も新鮮で楽しく全く飽きる事がなかったのである。
 とも言えない。
 実は、以前乗った時の所要時間は4時間程であったがそれが今は3時間。いつの間にかずいぶんと短縮されていて、だから飽きる事もなく乗りとおせたのである。
 と、結論したいところであるがそれも違うようである。
 この路線は自宅からさほど離れていない所を通っており、いちばん近いのは距離にして40㎞、車で1時間の常陸大宮である。その他の水戸や常陸大子も、ちょっと出掛けるか、の範囲にあり、この路線を目にする事は多い。5年前には郡山から大子まで通っているのでこの線としては遠い部分もそう遠くない昔に味わっている。ただし「車で」である。
 そう、乗ったのは35年ぶりでも沿線風景は比較的なじみの範疇にはいる。よって車窓に初めての新鮮さは無い。所要時間の短縮は事実だが、見覚えある風景をなぞった3時間が飽きる事無く過ごせたのはなぜであろう。
 私はJR全線完乗とはいかないものの、多くの人と比べれば全国を渡り歩いた方に部類されると自負している。訪れていないのは沖縄県だけである。
 ただし訪れた都道府県の全てに足跡を記した訳ではない。通過しただけ、もしくはそれに近いものも多数あって、名所旧跡を訪れた事は無く、ローカル線の終点駅周辺を少し歩いただけ、という県も多い。
 私の場合は西が弱い。特に九州がよくない。
 九州でしっかり訪れたという認識があるのは長崎県の壱岐と島原だけで、福岡県と佐賀県は乗り継ぎの為バスなどで町中を移動したに過ぎず、熊本県も特急であっさり通過、鹿児島県も桜島は車窓から眺めたが、その他は薩摩半島西部の小町を少し歩いただけで、大分県、宮崎県に至っては夜行列車で知らぬ間に通過という体たらくである。
 それに比べると中国地方は少しましになる。それでも瀬戸内側は時間をかけて訪ねた所が多いものの日本海側はやはり手薄だ。鳥取砂丘も萩・津和野も行った事がない。
 だが、山陰本線は京都府部分は夜行ではあるものの全線を鈍行列車でじっくり、それこそ丸1日乗っているので気候風土には触れている。
 四国は不思議とよく訪れており、特急で駆け抜けてしまった区間はごくわずかで、ほぼすべての路線で鈍行列車にじっくり乗っている。訪れたいわゆる観光地も多い。
 関西、中部、関東は結構こまごまと訪れており、東北もよく訪れたし、常磐線、東北本線も全線鈍行で乗った事がある。
 さすがに北海道となると特急駆け抜け区間率が高くなるが、それでも多くの路線を鈍行でゆっくりと味わった。
なぜここで鈍行とこだわって上げているかと、以前書いたように沿線風景をよく見るには鈍行列車が適しているからと思われるからだ。
 私が乗った最長距離鈍行は倉吉から門司までの413㎞を14時間かけて乗りとおした山陰本線の831列車である。(この列車の始発駅は豊岡であるが諸所の事情により倉吉乗車となった)
 このほぼ同じ区間を急行列車で走り抜けた事がある。その急行「さんべ3号」と831列車の所要時間の差は約5時間。よって急行では「駆け抜けた」という表現を使ってもよいであろう。
 さて、このふた列車における山陰地方車窓印象はと言うと、まず急行は実際のところ全く記憶にないと言ってよい。唯一覚えているのは「結構山深い所を通るのだな」というものだが、この記憶はおそらく美祢線内のものであろう。「さんべ3号」は長門市でふたつに分割され一方は山陰本線を進み、残りは美祢線へと入るが、下関でまた一緒になって仲良く博多へ向かうという面白い列車で、私が乗ったのは美祢線編成であった。
 この駆け抜け無記憶急行に比べてじっくり鈍行では沿線記憶が結構残っている。山陰海岸の風景とか、宍道湖とか。
しかし、この残っていると思っている記憶がよくよくその深い所を探ってみるとどうも怪しい。確実と言えるのは日本海に沈む夕日を眺めた事で、これは海にかかった太陽が完全に没していくまでがしっかりと心の奥底に残っており、それを元にTOPの絵も描いた。
 ところが、その他の風景、宍道湖などはどう記憶の糸を手繰っても831列車でのものなのかがわからない。山陰にはこの時以外にも訪れているのでその時の記憶かもしれないのである。
 宍道湖の記憶はいくつかある。中には831列車の進行方向とは逆に動く記憶のものもある。当然逆方向のものは該当しない。だが、その他のものはどうであろう。写真でも撮っていればその時の記憶と合致させる事が出来ていくつかある記憶の中から確定する事も出来たのであろうが、当時は沿線風景にカメラを向ける事はよほどの時以外には無かった。その風景の証拠を得るためには1枚当たり30円程もの費用が必要だったためやたらとシャッターを切る事が出来なかったのである。 
 ところが、この写真というものは実は記憶を確実にするものであると同時に記憶を曖昧にするものでもあるのだ。
 冒頭に書いた指宿枕崎線の車中から見た桜島。南国らしい木々越しに広がる錦江湾の向こうにそびえる桜島。私は珍しくその風景を写真に撮っている。
 確かに刻々と姿を変える桜島の姿の記憶はある。それはくっきりとした姿であった。しかし、写真を見返すとその姿は霞みを帯びている。さて、これは私が記憶を美化させているのであろうか。それとも写真写りが悪いのであろうか。
 だが、この場合はまだよい。しっかり自分の目で見た記憶があるからである。まずいのはその先の風景である。
 桜島を眺めてから1時間もすると今度は秀麗な姿の山が見えてくる。開聞岳だ。
 その山姿を見た記憶はある。しかし、その記憶している形が実際に自分の目で見たものなのかがわからないのである。
 開聞岳の写真は撮っていない。でもこれだけ有名な山となると多くのメディアでその画像を見る事が出来る。その自分が撮ったのではない、自分がそこに居合わせていたのではないものとすり替わっている可能性が否定できないのである。
 しかし、このような外部記憶装置の助けを借りてでも乗った路線の記憶が残っているのはまだよい方である。
 常磐線の原ノ町から青森まで11時間半かけて乗った鈍行列車の記憶は悲惨である。残っているのは青森県の像の檻だけだ。いったい丸一日をかけて何を見ていたのであろう。
 この列車でも車窓風景の写真は撮っていない。でもカメラに全く触っていない訳ではない。何枚かの写真は撮っている。その外部記憶により残されているもの、それは車両の写真である。当時でももう姿を消しつつあった古い車両の写真である。それも自分が乗っている列車のもので、長い停車時間を利用して反対側のホームなどから撮ったものだ。
 このごくわずかに残っている写真から当時の私が何を求めてその列車に乗っていたのかがわかってくる。
 それは、その列車に乗りたい、乗りとおしたいである。
 831列車も223列車も門司へ行く事、青森へ行くことが目的ではない。消えゆく車両の細部を記録する事でもない。そして、その列車の沿線風景をじっくり見るためでもない。ただ単に乗って時を過ごして、それだけである。
 つまりその時の私にとって流れる車窓は目的外のものであって、関心を持って眺めるものではなかったのである。
 古い箱に収まって風を浴びながらボーッとするもよし、居眠りするもよし、列車乗車の雰囲気を味わうだけでよかった。駅を出ると野や山や海辺や町を走りまた駅に停まる。その繰り返しを堪能する。車窓はその過程を演出するものにすぎない。
 かような次第になれば、流れる車窓がいくら風光明美であっても、その地方を象徴するものであっても記憶には残らないのは当然である。関心がなければ富士山ですらそれは車窓を横切る単なる山で記憶に残らないであろう。(現に我が息子たちに幼き頃富士山を間近で見せたが全く記憶していなかった。)
 以前書いた文では鈍行列車の方が風景がよく見えた、と書いた。しかし、これも列車のエンジン音が聞きたいという目的が無くなったゆえに記憶に残った風景であった。もし目的が達成されていればそちらに関心が集中して風景はやはり記憶に残っていなかったであろう。いや、目的外となると風景は苦痛ともなる場合もある。
 最初に書いた水郡線に初めて乗った時のその目的は「水郡線を乗りつぶす」であった。水郡線の鈍行列車を味わうでも沿線風景を楽しむでもない。郡山(安積永盛)から乗り、水戸に到着する事、それが目的となる。そうなると単調な風景の繰り返し、特に久慈川の渓谷を抜けてしまってからの風景は「飽きる」以外の何物でも無くなる。早く水戸に着かないかな、との思いと裏腹にのんびりゆっくり興味対象外の時間が続く。たまに現れるキロポストの水戸までの距離がなかなか減らないのにいらいらする。
 もっとスピード出せないのか?これがビデオの画像であれば(当時は沿線風景の映像どころかビデオテープすら普及する前であったが)早送り出来るし、テレビであれば他のチャンネルに切り換える、というような気持であった。
 かように初めて乗った時は飽きてしまった水郡線の車窓をなぜ二度目は飽きることなく観賞する事が出来たのか。そう、言わずもがなであるが、目的が車窓だったからである。
 今回はそれにあたって小道具を1つ用意した。地図帳である。
 その尺度は1/100,000。この尺度は狙ったものではなく家にあったものがそれだっただけなのだが、適度な尺度であったと思う。ただしはるか遠方に見える山の名前を確認するときには巻頭の1/500,000を利用した。
 地図が一冊あると車窓は格段におしゃべりになる。それまでは押し黙っていた単なる山が「私は○○です。高さは××で南側と北側ではその表情が全く違います。」などと語ってくる。駅にある名所案内が「東2㎞」とぶっきらぼうに言っている所も「ここです。こんな感じです。」とアピールしてくる。
 地図は未来も語ってくれる。
 「この先渓谷は左側に見えますが、トンネルをひとつくぐると橋を渡って右側になります。」
 「右側に山が見えますが、間もなく線路は大きくカープしてその山のふもとを通ります。」
 そして
 「間もなく5年前に立ち寄った所を通ります。」
と、過去も思い出させてくれる。
 更に、地図と風景を一致させておけば後に地図を見れば風景を思い出せる。
 つまり、予習して授業を受けて復習もするのである。これだけ勉強をすれば記憶に残るのは自然であろう。
 ただし、この車窓観賞方法は大変忙しいものでもある。情報量が今までの漠然乗りとは全く違う。時間などあっと言う間に過ぎ去ってしまう。
 たとえば地図なし北海道であれば駒ケ岳の裾を走って海岸に出るとぐるっと回った対岸が室蘭だなー、と2時間単位くらいの情報であるのに対して、地図があると極端にいえば山やカーブのひとつひとつがそれに相当する、つまり絶え間なく情報が入ってくる。あまりのめり込むと車窓より地図を見ている時間の方が長くなりその出来映え確認作業のようになってしまう。
 ゆえにこの方法で車窓を楽しむにはやはり鈍行列車でのんびりゆったりの時の方がよいであろう。こまめに停まる駅もいいインターバルになる。特急で突っ走ってしまってはとても情報を処理しきれないし、新幹線ともなれば早回しダイジェスト版のようで、え~と、あれは、と地図を見る間もなくそれは過ぎ去ってしまう。
 列車に乗って風景を眺めるという事はチャンネルが一つしかないテレビを見続けるという事と同じであろう。ちょっとした興味関心を持つだけで流されるものは情報番組となる。ただ単に時計代わりでスイッチを入れているような状態ではいかにももったいない。
 ところで件の夕焼けの海の絵は響灘だと思っていたが、この項を書くにあたって改めて時刻表と地図を眺めたところもっと東の日本海、益田‐東萩間であったようだ。その頃の日没は19時10分。改めて地図と日没時間を調べるまでもなく、思っていた辺りの通過時刻は21時過ぎなので夕焼けは到底無理。私の記憶などこんなものだ。 

--第46号(平成26年8月18日)--

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コメント(2)

 

 

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昔は必ず分県地図を何枚も持って車窓を追いかけていました
この地図が今となってはとても貴重
でも最近は地図を持つのがおっくうに(殴)  
2015/4/5(日) 午前 6:55  LUN
 
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> LUNさん
今は大きく重い地図を持ち歩かなくともタブレットですか?
ローカル線車内で使えるのかなー。  
2015/4/12(日) 午前 5:47  NEKOTETU