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栃木県農業大学の掩体壕、と掩体土塁

 投稿日時 2012/10/14(日) 午後 1:10  書庫 清原  カテゴリー その他趣味
 


ずいぶん長い事空いてしまいました清原シリーズを久々に。

栃木県農業大学。
清原シリーズとは言いながら住所は宇都宮市上籠谷町です。



この学校はそもそもは1905(明治38)年に芳賀町下延生に出来た下延生農業補習学校でした。
この補習学校は下延生農学校と名を変えた後、1920(大正9)年に芳賀町上野原へ移転して上野原農学校となりました。
しかし、この直後日本も巻き込まれた世界恐慌が起こります。(1929(昭和4)年)
そこで、農林省より「経済恐慌克服のために農山漁村経済更生計画における中堅人物育成施設として各府県に修練農場を設置する事」という指令が出されました。(1934(昭和9)年)
そこで1937(昭和12)年、県は上野原農学校を県立とする事にし、同時に
「上野原は宇都宮から遠く、県東部に偏在している事と、修練農場は1画50町歩の広大な土地を必要とするので、宇都宮に近くしかも土地の広い清原に移転したい。」
という事で1938(昭和13)年、当時御料地だった清原へと移転し清原農学寮となり、栃木県農業大学と続いてきました。
また、1934(昭和9)年に栃木県種畜場内に設立された栃木県役馬利用有畜営農修練所も1937(昭和12)年に栃木県役馬利用指導者養成所として清原農学寮に置かれました。

と、ここまでの歴史を素直に読めば純粋に農業の為という学校です。

さて、この栃木県農業大学の敷地内にとその周辺にはちょっと変わった物があります。
まず、校内に残っているのが最初の記事で触れた掩体壕。
一見するとトラクターなどをしまっておく倉庫の様に見えますが、実は戦時中に飛行機を爆撃から守るために使われたものです。
これが校内に3個あったのですが、1つは解体されてその破片が残るばかり。



もう1つは少し小ぶりで健在らしいのですが、藪の中なので近づく事が容易ではありません。(特に冬以外は蜂とマムシに注意)

そして学校敷地より少し離れた所にあるのが掩体土塁です。



これも飛行機を爆撃から守るものですが、掩体壕の様にしっかりとしたコンクリート製ではなく出入り口を開けて円形に土手を設けただけの物で、爆弾や機銃掃射の直撃は避けられませんが、近くに落ちた爆弾の爆風、破片からは守ってくれます。
土手の外側は溝になっていますが、これは土手を作る際に土を採ったからでしょう。
現在は木々が生えて見通しが効かず全体の姿は非常に解りずらくなっています。
単純に表せばこんな感じですね。



また、学校の西方にはこんな物。


や、こんな物。



四角い方は便所跡ですね。
丸い方は揚水機場の跡だそうで、どちらも清原農学寮で使用していたものではありません。

う~ん、きな臭い、きな臭い。



ところで50町歩という広さがどのくらいかというと、1町歩が9917㎡だそうですから、495850㎡。
約50万㎡なので約15万坪。
東京ドームが10個すっぽり入る広さです。

と、よく表現されるけどこれがピンとこないんですよねー。
ドーム行った事無いし。

上野駅が○個すっぽり入る、という表現なら結構ピンと来そうなんだけど上野駅の敷地面積ってどれくらいなんでしょう?

コメント(2)

 

 

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上野駅の面積はわかりませんが、上野公園が約53万平方メートルだそうです。動物園や不忍池、博物館や美術館など盛りだくさんのあの公園よりちょっとだけ狭いと考えると…結構広いですね。

あと、掩体土塁の模型、わかりやすすぎです。こんなの造ってると、また奥様に叱られますよ。  
2012/10/14(日) 午後 9:09 [ 愛知の鐵 ]
 
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愛知の鐵さん、
なるほど、モノレールを走らせてもいい広さなんですね。う~ん、実感。
模型は制作、撮影、丸めて元の粘土まで10分くらいと大急ぎでやったので、その時点ではばれてなかったのですが……。  
2012/10/16(火) 午後 6:25  NEKOTETU