<ж 34 ж 「三白眼」                         ж31ж 割れちゃったお茶碗>

ж 31 ж 峠

 投稿日時 2010/7/4(日) 午前 7:16  書庫 鉄道の間  カテゴリー 鉄道、列車
 

 



 前回UPした奥羽本線峠駅の写真を眺めていたらまた訪れてみたくなった。という事で早速新幹線に飛び乗って、と出来れば良いのだが残念ながら諸々の事情でそう易々と実現は出来ず、古いアルバムを引っ張り出して思い立ったが吉日の旅が出来ていた頃を思い出すのみとなってしまった。
 日本は山国である。だから多くの峠があって多くの鉄道がそれを越えている。
 そう言えば留萌本線に峠下という駅があったっけ。そこを通った時は一面の雪景色で何処が峠だったのだか良く解らなかったけど峠を越えたのだろう。
 そんないつのまにか越えてしまうような小さな峠が無数にあるのだから峠の付く駅もずいぶんあるのだろう。
 え~と、その他には奥羽本線にそのものズバリの「峠」、美祢線に「湯ノ峠」、山陰本線に「梅ヶ峠」、南海高野線に「紀見峠」、富士急に「三つ峠」。
 あれ?以外に少ないぞ。
 で、代表格の奥羽本線峠駅。良い駅だったなァ。なんとものどかでのんびりとして静かで。
 「峠越え」というとその雰囲気は厳しさになるが、「峠」となるとなんとも言えない安堵感がある。もっとも、私が訪れた頃は今のように普通列車ですら電車でするりと越えてしまうのと違って、電気機関車がヴワーンとうなりながらの峠越えであったが、その厳しさを微塵も感じる事無くのどかで楽しい峠越えであった。鉄道における峠越えが厳しかった時代は蒸気機関車の時代までであったのであろう。
 あいにく私はその時代の事を知らないが、全国に浸透しつつあった、蒸気機関よりも強力なエンジン付き更にそれにターボまで付いた、赤いディーゼルカーが棚田の間の峠道をエンジンを目一杯うならせても原動機付き自転車並の速度しか出なかった事を考えると、山間峡谷を行く蒸気機関車列車がいかに大変だったかが偲ばれる。
 ちなみに奥羽本線の峠電化工事ではトンネルの径を大きくする工事の際、現在の様にその区間を運休にしてバス代行とする事無く、列車を通しながらの工事であった。トンネル壁を残したままその外側を削り広げ、完成後に旧壁を取り除くというもので、列車が通過するとレンガの隙間から大量の煙が狭いスペースへ侵入して来るという大変な工事だったそうである。
 さて、この峠駅であるが何故単純に峠であるかといえばこの駅の開業当時(明治32年)にはまだ他に名だたる峠に駅がなかったのでただ単に「峠」で良かったからである。よってその後に開業した全国の峠部分に出来た駅(多くは駅にするには利用客が見こめなかったので信号場となった)にはその峠の名前が付けられた。ただし名称だけで峠の文字はつかないものが多い。だから峠のつく駅も少ない。
 峠の名称が付くことによって自然とその峠の名前を覚えられたのだが、この奥羽本線の峠は峠という名称ばかりが際立ってしまいその峠の名称そのものは「あれっそう言えばなんだっけ?」となり易い。鉄道を利用しない人ならば「あぁ、あそこは栗子峠だよ」となるであろう。ここの峠の名称は「板谷峠」。1つ福島寄りにその名の駅がある。
 似たようなパターンに清水トンネルがある。「このトンネルがくぐっている峠は?」と問えば車好きは「三国峠だろう」と答えるであろうしもしかすると「関越峠じゃないの?」となるかもしれない。鉄道好きなら「清水峠」。
 でも残念ながらどれもはずれで、実はこのトンネルは峠の下は通っていない。東京から行くと入口は清水峠口なのだが出口は三国峠口となっていて、谷川岳の隣の一ノ倉岳と茂倉岳の下を通っている。だからこのトンネルは厳密には峠越えとは言えずまさに国境のトンネルであって、もしこのルートが三国峠越えででもあれば川端康成も「三国峠の長いトンネルを抜けると……」とやっていたかもしれない。
 清水トンネルは中央分水界を越える名だたる物の1つである。しかし、残念ながら峠越えではない。中央分水界とは太平洋側と日本海側を分ける分水界で、ここを境にして川は、太平洋へ流れるか、日本海へと流れるか、が変わる。
 で、峠越えで中央分水界を越える名だたる物が近くにある。そう碓氷峠だ。
 この峠は不思議と中央分水界を越えたという実感があまり沸かない。と言うより峠を越えたという実感が沸かない峠であった。
 この実感をひしひしと感じるのは先の清水トンネルでそちらはまさにスポンと峠を越えた感じがする。しかし、こちらはそれが無い。何故だろうと考えてみると、この峠には越えた後の下り坂が無いからである。 
 峠越えの実感は峠の頂上ではなく越えた先にある里へ降りて後ろを振り返った時に
「あぁ、あの山を越えてきたのだ」
と見上げる山がある時に感じる場合と、中央本線笹子峠の様に越えた瞬間に里とそこへ続くなだらかな道が見える、という様に風景が劇的に変化した時である。
 しかし、碓氷峠はこのどちらでもない。横川まで行くとドカンと山に突き当たるがそこを苦労して登ってもその先には急な下り坂も無ければ眼下に広がる風景もない。確かに寄り添う川は太平洋の利根川水系から日本海の信濃川へと変わる。そして列車は淡々と川を下って行くのだがその下りが今1つピンと来ないのである。いやそれどころか長野に向かってまだ登っているような気さえする。
 数字で見てみれば一目瞭然で、標高387mの横川駅からグォンと登って碓氷峠が960m、そこから下り坂で軽井沢駅が939m、そして長野駅は360mとかなり下る。でもその実感が沸かない。
 実感が沸かないのは峠の規模が大き過ぎるからである。数字で考えれば軽井沢駅が峠の頂上で長野駅が里となる。そして長野駅から振り返っても碓氷峠は見えない。
 これと似たような雰囲気を持っているのが箱根である。
 行きは小田原から入る。いきなり山に突き当たってウンウン登る。その先にあるのは千石原の高原。帰りは乙女峠から御殿場へ抜けて東名高速で帰る。あれ?いつのまにか山を降りて平野に出ちゃった。振り返ってもどれが苦労して越えた箱根山だかよく解らない。
 つまり信越本線はこれを日本列島規模で行っているのだ。横川~軽井沢は峠越え鉄道ではなく登山鉄道だ。だから私はこの横川~長野間が日本で最大の峠越えだと思う。惜しむらくは長野から先でもう1つ峠を越えてしまう事。せっかくだからずっと信濃川に沿って行ってくれれば良いのだがそれは長野から先を飯山線に任せて自分は野尻峠を越えて関川へと浮気してしまう。
 この峠の近くの駅は黒姫。標高は671m。長野駅との標高差は結構あるが碓氷峠の規模からすれば取るに足ら無いものである。しかし、こちらの方が峠越えの実感はある。直江津まで下って振り返り見る妙高山はなんとも言えない。
 日本は山国である。そしてその山は富士山の様に裾をきれいに広げたものは少なくボコボコの山ばかりでつまり谷もいっぱいある。だから日本は山谷国である。谷の奥には里がある。谷が広がっているところに出来た里は町となる。この町から隣の町へ行くには谷を登って里を通り峠を越えてまた里に降りて隣町に至る。そもそも里と里の間には直接交流は少ない。多くの場合文化や物資は一度町へ集められて集約的に町同士での交流となる。つまり峠道を使う人の多くは町同士の交流のためで里同士での通行は少ない。そこへ町同士を直接つなぐ新たな道が出来た。当然そちらの道は栄え、峠道は衰退する。
 文化(人)は新幹線が運ぶ様になった。物資は高速道路だ。そうなれば峠道を通る人はごくわずか。見捨てられ廃道となるのは時代の流れとして致し方ないのか当然なのか。
 峠道は下りよりも登りの方が大変に見える。しかし、真に大変なのは下り坂である。下り始めて停まれないという危険がある。それ以上に下り始めてその先が進めなかった場合が最も危険である。
 登ってきた道は引き返す事が出来る。そしてやり直せる。しかし、一度下ってしまうとその坂が逆に登れるとは限らない。身動きが取れなくなる。峠ではこの辺も見極めなければならない。 

--第31号(平成18年12月9日)--

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 コメント(2)

 

 

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碓氷峠、・・確かに日本のギアナ高地?といいますか、「崖」ですよね。

アプトに替わる新線が25‰迂回案が通っていたらどんな車窓になっていたのか、
EF63の登場はなかったであろうかわりに、現在でも幹線としてブルサンが
貨物を牽いて昇り降りしていたかも・・

また、新幹線が小諸付近までの長大トンネルで軽井沢地下駅案が通っていたら・・

などなど、イロイロな妄想が膨らみます。  
2010/7/4(日) 午後 10:47  哲ちゃん+Mc169
 
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哲ちゃん+Mc169さん
そうですね。
普通勾配でしたら高崎~軽井沢が第三セクターとなっていたかもしれませんね。
会社名は「妙義高原鉄道」?  
2010/7/5(月) 午後 6:54  NEKOTETU