<おまけ Vol 6                     ж 2 ж 東北本線─昭和40年代前半(4)>
ж 2 ж 東北本線─昭和40年代前半(3)                 
              投稿日時2008/12/20(土) 午後 4:15  書庫続、時刻表昭和史  カテゴリー鉄道、列車

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東北本線の昔と今

1970年では普通列車のほとんどが特急や急行の通過待ちをしており、普通列車①は久喜と石橋でそれを行っている。
普通列車②は数少ない通過待ちの無い列車の一つ。
30年で駅が5つ増えているが普通列車②と③で所用時間に差は無く、かなりの速度高上が見られる。
一方特急列車は新幹線に引けを取らないものであったが現在は昔の急行にも劣るものになって、普通列車との所用時間差は少なくなっている。
(ホームタウンとちぎは新宿発)
なお、以前の普通列車における浦和停車は朝の上りと夕方の下りだけであった。

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 あっという間に全ての座席が埋まり、確保できなかった人達も居心地のよさそうな場所に収まって車内は次第に落ち着いていった。座れなかった子供がうらやましそうにこちらを見ている。
 席や居場所が決まると大人達は荷物を網棚に上げ始めたがそれもすぐにいっぱいになった。当時は帰郷している時間が長く、今の様に帰省ラッシュの翌日にはユーターンラッシュが始まる、等という事は無く、皆1週間ほどの滞在が常だったので当然荷物の量も多かったのである。余談ではあるが、両親の実家の地方では滞在がちょうど1週間だと「7日帰り」だと言われて忌み嫌われ、たいてい「もう1日泊まっていけ」ということになった。お盆の仏様が7日で帰るからである。
 網棚に乗せられた荷物はまだ風呂敷包みが多く見受けられた。もっとも風呂敷で包んだだけという物はさすがに少なくてそれが紙袋に入れられている物が多かった。さすがに荷物が多いのでそのままでは持ち難かったのであろう。
 荷物も片付くと父が買い物に出掛けた。今度の買い物は車内でのお供の買出しである。乗車前の待ち時間に買っておけばよさそうなものだが、もし座れなかった場合その処理に困るから席に落ち着いてからの買い物になったのであろう。
 当時ホームの立ち売りでは買った品物を袋に入れてくれることはまず無く、代金を払うとそのままで渡された。よってもし座れなかったときはそれを手で持ちつづけていなければならなかったからである。
 買い物に出掛けているうちに列車が出てしまわないかと子供達ははらはらして一緒に残っている母にその旨を打ち明けたりするのだが、発車時刻が解っているので「大丈夫だよ」と落ち着き払っている。
 その言葉通りすぐに父は戻ってくると開いていた窓から両手いっぱいの品々をさしいれて来た。よく古い映画などで弁当の上にお茶を乗せて持ってくるまさにそのスタイルである。
 もっとも我が家の場合は手弁当持ちが大抵だったので、その手の上に積み上げられていたのは冷凍みかんや缶ジュースで、指からはその頃にはビニール容器に変わっていたお茶がぶら下がっていた。
 買い物に出ている間はすぐにでも発車しそうではらはらしていたのだが、無事に父が帰ってきてからは逆になかなか発車しないのがもどかしかった。「あと何分?」としつこく尋ねつつ道中の楽しみであるはずのお供に手をつけてしまう。
ジュースは缶入りであったが飲み口は付属の小さな缶切のような物で上部にプチプチと空気穴1ヶ所、飲み口穴2ヶ所を開けるタイプであった。
 冷凍みかんはその食べるタイミングが難しく、かちかちに凍っていると皮もむけないがちょっと油断しているとびしょびしょに溶けてしまって始末が悪かった。しかし程よいタイミングだとシャーベット状でとても美味しい。
 よって発車前に手をつけるのはまだ固いみかんではなくジュースの方であった。
 乗車してから発車までの時間はとても長く、乗車待ちをしている時間よりも長く感じられた。しかし実際は数分の事で、ジュースを飲みきらないうちに発車のベルが鳴り始めた。おそらくその時私の顔は満面の笑みを浮かべていたであろう。
 ベルが鳴り止みドアが閉ると列車はガクンと発車するが加速はせずにそのままの速度で進む。しばしの間静々と走った後再びガクンと来て今度はおもむろに加速していく。
 当時、この発車のしかたは上野駅独特の物であると思っていた。もちろん東京等その他の駅でも始発駅であれば大抵この様に発車したのであるが、まだその機会が無かったし、よく使う私鉄や国電は行っていなかったからである。
 走り出すともうジュースの事など何処かへ行ってしまってひたすら外を眺めていた。滑るように流れていくホームを見送り、レールを軋ませながらいくつもの分岐機を渡り、保線員への注意を促すベルの鳴るトンネルのようなガードをくぐり、掘割の中の勾配を登ると陽光まぶしい地上へと出た。
 走り出すと風が強く吹き込む為いっぱいに開かれていた窓が半分閉められた。窓は上下2枚のガラスからなっていてその両方を上げてしまうと大きな開口部となりとても開放的だったのだが、そのままだと帽子掛けに掛けられた帽子や上着が吹き飛ばされてしまう恐れがあった。故郷への帰省であっても皆よそ行きのいい服を着ていて多くの父親はスーツにネクタイ姿だったのでその上着が掛けられていたのである。また強い風はセットが乱れると母親達にも嫌われていた。
 緑色の山手線や青の京浜東北線と並走しエメラルドグリーンの常磐線が分かれて行くと尾久に停車。隣には何本もの寝台列車や特急電車が停められていてこの「車庫」は沿線風景の始めの楽しみであった。
 尾久を出て「車庫」が尽きると京浜東北線が上を跨いでまたより沿ってくるが、そのまま高いところを行くので電車そのものはよく見えない。やがて赤羽線の黄色い電車がちらりと見えると赤羽。京浜東北線の石積み高架ホームの隣下に設けられた狭いホームは多くの客で混雑していた。こんなに大勢の人が乗れるのだろうか、と思うほどの混み具合であった。
 この駅は東北本線のホームが1本で上りと下りが挟んで使う。しかも高崎線とも共用であった。よって少なくはあるが、上野へ向かう人と高崎線利用の人はこの電車には乗らないので乗りきれるかどうかは杞憂に終わるのだが、それでも半分程の人が乗りこんだので車内は満員になってしまった。

(次の記事へ続く)

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