人前に出て講座をしたり、
お話会をしたり、
おシゴトをしてたりしますと、
時々は厳しいご意見やら、ご批判を、
頂くことだってあるのです。
それ以外にも生きていれば
悲しい事を一方的に言われたり、
感情のままにぶつけられたり、
理不尽になじられたりもします。
これは誰にでも起きる
よくある事…です。
これは何も悪いことではなくて、
そういう事なんだという事実があるだけで、
それをどう受け止めるかなんてのは、
私が私で生きることの中で、
私が決めたらいいと思っています。
実際、『やっぱりそう言われたかー!すいません!』って時もある。
それは私の心の中にある不安や恐れ、逃げているものに目を向けさせる何かだったりする。
こういう事へのご意見は本当にありがたく受け止めます。
とても勇気がいる行動を取って、私に教えてくださったのだから。
よりその方の事を私は愛しく思います。
中には違うものもあります。
その人の中にある不安や不満や恐れを、
私に投影して思いをぶつけて、
自分は正しい‼︎と思う為のご意見です。
こういう事でのご意見も私なりに、
私の中に何かその様な思いがなかったか、
私の今にその様なモノを刺激してしまう何かがあるのか、
単にスケープゴートにされたのか、
そういう風に考えながら分析して受け止めます。
淡々と、分析して、淡々と、整理する。
先日もあったんです。
読んだその時はザワザワワサワサドキドキします。
で、私はそういう時、何度も何度も読み返します。
そしてそのザワザワワサワサドキドキを感じ抜きながら、
じっと文字を眺めながら自分の心の中に潜ります。
反省することはする、改善点を見つける事もする、
でも悲しいわー、わーん‼︎って泣きたいなら泣きます。
でも、私は落ち込みません。
深くは受け止めますが、
深くは傷つかない事を知っているから。
私が私で生きることは
私が私を生きる為にどうしたいか、
それを私が決めて生きることだと思っている。
だから、私が私で生きる為に
どんなご意見もご批判も、
『いい風』にしかしないという決断を
私の中でいつも行うからです。
こういう事を怖れるなら、
何も言わず、言われるまま生きていればいい。
どんな風に生きても、ご意見やご批判は頂くものです。
なら、私は私で生きることを選び、
いい風にする為の糧にするという決断をする方が
よっぽど私として生きていく力になります。
怖くていい。
不安でいい。
揺れていい。
泣いていい。
それが私なら。
私がそれを感じているなら
それは私の中で共に育ったもの。
否定しなくていい。
価値がないなんて貶めないでいい。
駄目な奴だといじめなくていい。
それが私なら。
私はそれを感じることが出来る心を
私の中にちゃんと持っているということ。
私が私で生きるということは
私が私の命を信じて
私が私を認め満たすこと。
こういう事があるといつも思います。
また一つ、私は階段を上がる時が来たんだなって。
先を行く人に焦がれる人もいれば、
先を行く人を妬む人もいる。
それはその人の心の在り方、
受け止め方。
私は私で生きるだけ。
それだけを死ぬ日まで続けるだけ。
この考え方が正しいかどうかなんてわかんない。
答えなんか百万通りあるんだから。
何も難しいことではない。
私は私でしか生きられないから
こういう選択を意図してする。
それでええねん、何ぞ?なのです。
いやぁ、また一つ、階段を上がる時が来ました。
ちょうど、モヤモヤしてたんですよね(笑
私自身が自分のおシゴトについて。
向かい合えっていう教えですね。
ありがたい。