静岡県下田市
下田温泉まだまだつづきで・・・
お腹も満たされてご飯前に入ろうとした宝福寺と云うお寺さんへ・・・
門前に大きな竜馬の木像?が・・・
八幡山 宝福寺
1854年、日米和親交渉にあたり日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれた場所。それより以前、滞在中の山内容堂に勝海舟が謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許された寺としても知られています。
唐人お吉の菩提寺としても有名で、お吉記念館が隣接しています。
(伊豆下田観光協会ホムペより)
「竜馬が飛び お吉が眠る」の大きな看板が目立ちます。
山内容堂 勝海舟謁見之寺、坂本龍馬飛翔之地の碑が・・・
先ずは参拝・・・
そして隣接している「唐人お吉記念館」へ・・・
唐人お吉のいろいろな資料とお墓があります。
唐人お吉
唐人お吉は本名「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海
(うつみ)に、舟大工・市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。
4歳の時、家族が下田に移り住み、14歳で芸子となりました。
新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、それが奉公所の目に
留まることとなり、17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事
タウンゼントハリスのもとへ待妾として奉公にあがることとなります。
その後は、幕末、維新の動乱の中、芸子として流浪の果てに下田に戻り、
鶴松と暮らし、髪結業を始めますが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し
明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます
波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。
(うつみ)に、舟大工・市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。
4歳の時、家族が下田に移り住み、14歳で芸子となりました。
新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、それが奉公所の目に
留まることとなり、17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事
タウンゼントハリスのもとへ待妾として奉公にあがることとなります。
その後は、幕末、維新の動乱の中、芸子として流浪の果てに下田に戻り、
鶴松と暮らし、髪結業を始めますが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し
明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます
波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。
(宝福寺ホムペより)
左のが芸能人たちが寄贈したお墓いろいろ・・・
右の小さいお墓がお吉の元のお墓
明治24年、第十五代竹岡大乗住職は、当時下田の稲生沢川の川岸に3日間投げ捨てられていたお吉の亡がらを引き取り手厚く葬った、元のお墓。
(宝福寺ホムペより)
(宝福寺ホムペより)
安政6年、お吉19歳の時のもの(宝福寺ホムペより)
日本の夜明けのために身を投じたお吉さん、その後から晩年の悲しい結末、ぐっと辛いものを感じました。
・・・おっと御朱印帳を車の中に置き忘れた事に気付き・・・
次の日もう一度訪れて御朱印頂いてきました。( ⌒ ー ⌒;)
お寺本堂に上がったのですが人気が無く、唐人お吉記念館で聞いたら出来上がってるものがあるということで、日付を入れてもらいそれを頂いてきました。
御朱印帳が無くてももらえたのですね・・・(;^_^)
懲りずにまだまだつづきます・・・
次はいよいよココです!