『光を繋ぐ舟」

第五話 終幕:光を繋ぐ舟

 

 数年の月日が流れた。

 島の北端、あの灯台の麓には、小さな、しかし温かな学び舎が建っていた。 

 

 立花咲が運営していたリハビリ施設の分校であり、不登校や家庭に事情を抱えた子供たちが、海と向き合いながら心を癒す場所。そこには、かつての成功者・東雲澪が、ボランティアとして、そして一人の表現者として、子供たちに「物語」を語り聞かせる姿があった。

 父・篤人が愛した本、母・遥が残した日記、そして彼女自身が経験した地獄と天国。 

 

 それらすべてが、彼女の言葉を通して、新しい命たちへと繋がれていく。

 傍らには、警察官時代の経験を活かし、島全体の安全と子供たちの生活を見守る神崎啓太がいた。 

 

 彼は今も灯台守を続けている。しかし、その背中はもう孤独ではない。夜が来れば、彼は澪と共に、一つの食卓を囲む。そこにあるのは、豪奢な食事ではなく、自分たちが耕した畑の野菜と、ささやかな笑い声だった。

 ある夕暮れ時。 

 

 澪は一人、浜辺に座り、水平線を見つめていた。 

 

 手元には、ボロボロになったあのノート、『遥の記録』がある。

 彼女はふと、母の最期の言葉を思い出した。 

 

「あなたは、大丈夫。どこまでも、光を、繋ぐ舟になるのよ」

 かつての自分は、その言葉を「誰からも愛される、輝かしい存在になれ」という意味だと信じていた。だが、今の彼女にはわかる。 

 

 光を繋ぐ舟とは、暗闇を知る者だけが漕ぎ出せる、救済の舟なのだ。 

 

 自らの過ちを認め、他者の弱さを抱き、荒波の中で手を繋ぎ合う。その繋がりこそが、闇を照らす確かな光となる。

 中原慎二が、ふらりと島を訪れた。 

 

 彼は澪の歩んできた道のりを、一冊の小説に書き上げようとしていた。

「東雲さん、この物語のタイトル、何にしましょうか」

 慎二が問いかけた。 

 

 澪は、沈みゆく夕日の黄金色の道が、海の上に一本の筋となって灯台へと続いているのを見つめた。

「『光を繋ぐ舟』。それ以外に、ありません」

 澪は微笑んだ。 

 

 彼女の人生には、まだ多くの後悔が残っている。父を看取れなかった痛みも、啓太を傷つけた記憶も、決して消えることはない。 

 

 だが、その消えない傷跡こそが、彼女を前へと進ませる櫂(かい)となっていた。

 彼女は、自分自身の人生という舟を愛していた。 

 

 沈みそうになりながらも、何度も修理を重ね、大切な人々を乗せて、今日まで漕ぎ続けてきたこの舟を。

 遠くで、灯台の明かりが灯った。 

 

 一筋の光が、夜の帳を切り裂き、広大な海へと伸びていく。 

 その光の先には、まだ見ぬ誰かの、絶望と希望が待っているだろう。

 澪は立ち上がり、砂を払った。 

 

 明日もまた、舟を出すために。 

 

 繋ぐべき光が、そこにある限り。


(完)

 

『光を繋ぐ舟』

第四話 孤高なる影の遺贈

 

 立花咲の語る真実は、澪の脳裏に焼き付いていた日向隆司の像を、根底から塗り替えていった。 かつて隆司が澪に向けた、「世界を動かすのは力だけだ」という言葉。それは澪を傲慢へと誘う悪魔の囁きではなく、力を持たぬがゆえに救えなかった何かを抱える男の、血を吐くような絶望の裏返しだったのではないか。

「隆司さんはね、年に一度、誰も連れずにこの島へやってきた。そして、この施設の荒れた庭を、ただ黙って半日、掃除して帰るのさ。寄付金の話をする時だって、彼は一度も笑わなかった。『これは俺の汚れた金だ。好きに使え』――そう言ってね」

 咲の瞳には、かつて都会で隆司に拾われ、この島で再生の機会を与えられた者としての深い恩義が宿っていた。 澪は愕然とした。彼女が隆司の傍らで「成功」の甘露に酔いしれていたあの数年間、隆司は一人、自らが作り上げたシステムの犠牲者たちのために、泥を啜るような贖罪を続けていたのだ。そして、その事実は、彼が最も認めていたはずの部下である澪にさえ、ひた隠しにされていた。

「なぜ、彼は私に教えてくれなかったのでしょう」

 澪の声は震えていた。咲は、潮風に晒された手を澪の肩に置いた。

「彼は、あなたに『汚れ』を知ってほしくなかったのさ。あなたは彼の光だった。濁りのない才能であり、彼がかつて失った純粋さそのものだった。彼にとって、あなたを成功の頂点に立たせることは、自分自身を救うことと同じだったのかもしれない」

 その言葉は、澪の心に新たな、そして最も激しい後悔を突きつけた。彼女は隆司を「世俗的な成功の象徴」として切り捨て、逃げるようにこの島へ来た。しかし、彼は彼女を光として守ろうとし、彼女が見捨てた「闇」を一人で引き受けていたのである。

 澪は、啓太の守る灯台へと戻った。 夜の帳が下りる中、灯台の回転する光は、規則正しく海を、そして澪の顔を照らす。啓太は、灯台の点検を終え、油の染みた手で澪を迎えた。

「啓太、私は、もう一度都会へ戻らなければならないかもしれない。……さよならを言うためではなく、引き受けるために」

 澪は、隆司と咲の関係、そして彼がこの島で守ろうとしていたものの正体を啓太に話した。 啓太は、静かにそれを聞いた。彼はかつて警察官として、社会の理不尽と個人の罪業を嫌というほど見てきた男だ。

「日向という男は、俺よりもずっと孤独な戦いをしていたんだな」

 啓太の言葉には、敵対心や嫉妬はなかった。あるのは、同じように重荷を背負う者への、深い共感だった。

「行っておいで、澪。俺はここを動かない。この光が、お前の帰る場所を照らし続ける。お前が日向さんの……いや、お前自身の過去に決着をつけ、本当の『光』を連れて帰ってくるまで」

 啓太の赦し。それは、幼少期に澪が求めて止まなかった「無償の愛」の完成形だった。独占でも依存でもなく、互いの魂の使命を尊重し、信じて待つこと。

 翌朝、澪は島を離れた。 かつての仕事着に身を包み、再び都会の喧騒に降り立った時、彼女の目に映る景色は一変していた。高層ビルの群れは、冷酷な資本の墓標ではなく、そこに蠢く無数の孤独な魂の叫びとして聞こえた。

 日向隆司のオフィスを訪ねた時、彼は以前と変わらぬ冷徹な表情で、巨大なモニターを見つめていた。しかし、澪はその背中に、耐え難いほどの疲弊を見出した。

「戻ったか。それとも、辞表の正式な受理を求めに来たか」

 隆司は振り向かず、乾いた声で言った。

「島へ行ってきました。立花咲さんに会いました」

 隆司の肩が、微かに揺れた。彼はゆっくりと椅子を回転させ、澪を凝視した。その眼差しには、隠し事を見破られた子供のような、無防備な動揺が走った。

「……余計なことをしたな。あそこは、君が見るべき場所ではない」

「いいえ。あそここそが、私が見るべき私の『影』でした。日向さん、あなたは私を光の中に閉じ込めようとした。でも、影を知らない光に、誰かを救う力はありません。私は、あなたの背負っているものを半分、引き受けに来ました」

 澪は、自らが持っていた会社の全株と資産を、咲の運営する施設の基金へと譲渡する書類を差し出した。それは、彼女が数年間で築いた世俗的な成功の、事実上の全放棄であった。

 隆司は、その書類と澪の顔を交互に見つめた後、ふっと力なく笑った。彼が初めて澪に見せた、等身大の、悲しげな微笑だった。

「……負けたよ。君をあそこへ行かせた時点で、俺の計画は失敗だった。君は、俺よりもずっと強い『舟』になった」

 隆司は、自らの引き出しから、一通の封筒を取り出した。それは、彼が万が一の時にと準備していた、自らの引退と、すべての事業を社会貢献型の法人へ移行させるための計画書だった。

「君が戻らなければ、これは永遠に闇に葬るつもりだった。俺は、自分一人で地獄へ行くつもりだったんだ。だが……」

 隆司の瞳に、初めて涙が滲んだ。それは、長年一人で戦い続けてきた男の、安堵の涙であった。

「君が光を繋いでくれると言うなら、俺も少しは、自分を赦せるかもしれない」

 二人は、成功と破滅の螺旋を降り、人間としての真の契約を交わした。 隆司は経営を続けながら、その利益のすべてを「影」の救済へと流すことを誓い、澪はその架け橋となることを決意した。

 そして、澪は再び島へと戻った。

 

(最終話につづく)