いま中国で若者の長江への身投げが止まらない~崩れても「壊れ」は押さえ込む「ステルス経済恐慌」の深層

日本人が中国の実態を理解できないわけ

日本では、中国崩壊論を唱える論者が少なくない。しかし、中国はどうみても、崩れているかもしれないが、壊れていない。日中国交正常化以降の50余年、日本の中国研究を振り返れば、ますます極論する傾向が強くなっている。なぜならば、中国研究者の多くは自らの期待に基づいて中国を描写しているからである。なんとなく群盲象を評すことに似ている。忘れてはいけないのは中国が想像以上の複雑な多面体である。

中国共産党党大会 by Gettyimages

中国共産党党大会 by Gettyimages© 現代ビジネス

おそらく中国崩壊論を唱える論者のほとんどは共産党指導体制に対する憎悪が強いものである。中国のような独裁政治がうまくいくはずもなく、だから崩壊するという結論に達するのである。

一方、中国の奇跡を標榜する親中派論者も少なくない。彼らは中国を訪問するたびに、中国の大きさ、新しさと豪快さに感銘して帰ってくる。天安門の城に上ったことのある人なら分かるはずだが、天安門広場の大きさを実感させられるのは広場の広さそのものよりも、城の上からみる広場にいる人間の小ささである。中国政府が中国を訪れる外国の要人を接待する極め付きは彼らが本国で味わうことのできない特権を味わってもらうことである。権力のすごさを味わった外国要人のほとんどは感服せざるを得ない。

しかし、どの国にも光と影の両面がある。中国社会も例外ではない。光の部分を中心にみている論者は中国の奇跡を唱える。逆に、影の部分を注目する論者は中国崩壊論を唱える。至ってシンプルな構図だが、多くの日本人にとってどっちを信じたらいいか、戸惑うばかりである。というのはそのいずれも嘘をついていないが、百パーセント真実でもないからである。おそらく真実に近づく一番簡単な見方は悲観論と楽観論を足して2で割ればいいと思われる。

目下の中国経済をどうみても、壊れていないが、大混乱している。アメリカに移住したある中国人経済学者が以前書かれた本の題名を借りれば、「中国経済は崩れているが、壊れていない」。この表現を持って中国経済の内実を表現するのにもっとも適切と思われる。

長江の橋、数十メートルおきに自殺防止の監視員が

なぜ中国経済が崩れているというのだろうか。究極的にいえば、市場経済の根幹たる市場メカニズムがマヒしてしまっているからである。中国市場で「見えざる手」が機能しなくなり、資源配分の効率が悪くなり、経済成長の力が弱くなっている。しかし、中国経済がマイナス成長に陥っている十分な証拠がないため、ここでそのような結論をつけることはできない。仮に中国経済がまだ成長しているとすれば、もっぱら量的緩和の金融政策によって実現している。マネーサプライを増やして経済成長率を押し上げても、一時的な効果にすぎず、持続不可能である。

上海、雨 by Gettyimages

上海、雨 by Gettyimages© 現代ビジネス

中国経済が崩れているもう一つの証左は若者の失業が急増しているからである。ここであえて公式統計の若者失業率をみないことにする。なぜならば、その統計の定義が変えられ、統計そのものも不完全なものだからである。農村から都市部へ出稼ぎに来ている農家の若者の失業率が統計に含まれていないのは最大の問題である。

40年前に中国で撮られ上映された「芙蓉鎮」という映画が日本でも公開されたが、あの映画は毛沢東時代の暗黒の中国社会の一側面を描いたもので、個人的にもっとも印象に残ったセリフは「生きていこう、豚のようになっていても生きていこう」と反革命分子の烙印を押された二人の主人が励ましあう有名なセリフである。歴史家によると、毛沢東時代は中国2000年の封建社会においてもっとも暗黒な時代だったといわれている。それでも当時の中国人は必死に生きようとした。

それから40年経って、今の中国で若年層の自殺者が急増している。本来、青春時代にある若者は生命力がもっとも強いはずだが、なぜ彼らは自らの命に終止符を打つのだろうか。答えはシンプルで彼らが将来について希望を持てなくなった。いかなる社会でも、若者の世代は将来について希望を持てなくなると、その社会の将来も明るくないはずである。

中国政府は毎年どれぐらいの人が自殺したかの正確な統計を発表していない。中国内外のSNSで若者自殺の現場の動画がたくさんアップされている。もっとも多いパターンは川にかかる橋の上から飛び降りる人と高層ビルから飛び降りる人である。中国を東西流れる大河長江(揚子江)の上をたくさんの大橋を架けられている。重慶や武漢などの大橋の上から飛び降り自殺の人が急増していることから、地元政府は数十メートルおきに警察官や保安員を配置させ、自殺防止に努めているようだ。

また、吹き抜けになっているデパートからの自殺を予防するために、吹き抜けの各階に網を張るようにしている。これらの措置がないよりあったほうがいいが、若者たちを自殺に追い込む社会的原因を取り除かないと、問題の解決にならない。

明らかに病んでいるが

では、中国の若者はなぜ希望を失ったのだろうか。一言でいえば、報われない人生競争に失望して、生きる意味が感じられなくなったからである。都市部の若者は生まれてからすぐにエリート教育のレールに載せられ、勉強、勉強、勉強以外に楽しいことがほとんど経験したことがない。しかし、大学に進学して、卒業しても、生活は決して楽になるわけではない。とくに、3年間のコロナ禍は多くの若者に失望感をもたらした。

一方、農村の若者にとって現実はもっと苦しいものである。彼らは生まれつきで戸籍管理制度によって奴隷のような存在になっている。彼らがいくら頑張っても、都市部の若者と同じ市民権を得ることができない。3年間のコロナ禍で彼らの多くが失業しても、失業率にすらカウントされない。

中国社会は明らかに病んでいるが、テレビのニュース番組をみると、明るいニュースばかり報道される。公式メディアが伝える「真実」と若者たちが直面する現実のギャップは逆に若者たちを無力化させてしまっている。最近、中国社会で流行語になっている「躺平」(寝そべり)がある。それは人々が疲れてこれ以上頑張らないという意味の言葉であり、ある意味では、中国社会で漂っている無力感を如実に表す表現である。

3年間のコロナ禍の中国社会をもっとも如実に表す、ある笑えないジョークをみたことがある。

2022年上海は2か月半にわたって街封鎖されてしまった。そのとき、上海では、外出禁止令が出され、2000万人の商業都市はゴーストタウンと化した。そのとき、一人の若者は一人で街を歩いていたところ、警察官に呼び止められ、「なぜ外出するのか、街が封鎖されているのを知らないのか」と聞かれた。若者は「刑務所から釈放されたばかりで、街封鎖のことを知らなかった」と答えた。すると、警察官は「何をして刑務所に入ったのか」と聞いた。若者は「SNSで街が封鎖されるかもしれないと書き込んだら、刑務所にぶち込まれた」と答えた。

今の中国で、預言者がデマを流布したとして拘束され刑務所に入れられた事案が多く報告されている。日本にいる我々がみている状況よりも、中国で生活している若者たちが感じるストレスのほうが数十倍も数百倍も重いもののはずである。

強権で社会を維持しているだけ

しかし、中国社会は壊れていない。それは中国社会が強い権力によって支えられているからである。今の中国では、局所的なクライシスは点、点、点となって、面になっていない。政府共産党はこのような局所的なクライシスを力づくで抑えている。

すでに明らかになっていることだが、中国では、社会治安維持費(予算)は国防予算よりも金額的に大きいといわれている。制度的に軍備は外国侵略から国を守るための体制づくりである。それに対して、社会治安維持は内乱を平定するための組織である。おそらく人数も予算の金額も社会維持費のほうが多い。

そして、中国経済が崩れないのは別の理由によるところが大きい。経済危機が勃発するメカニズムのなかでもっとも重要なのは情報の伝達である。日本のような民主主義の国では、政府が情報を統制できないため、経済が危機的な状況になると、すぐにクラッシュしてしまうことが多い。

それに対して、中国は強権政治である。中国政府のすごいところは情報を統制できることである。情報が統制されると、経済危機に関する情報が人民の間で共有されにくい。むろん、危機が抑えられても、問題が解決されるわけではない。問題を解決しないと、結局、さらなる危機に向かってしまう。中国社会と中国経済が壊れていないが、危機的な状況にあることに変わりがない。