「サラミ戦術」の逆効果...中国にとっての「悪夢」が現実に© ニューズウィーク日本版

中印は軍備増強を進めるが(ラダックのインド軍基地、2020年) DANISH SIDDIQUIーREUTERS

<ヒマラヤ地方でじりじりと国境線を拡張する、習近平政権の戦略は裏目に出ているかもしれない。本誌「」特集より>

近年、著しく軍事力を高めてきた中国は、国境線や領有権をめぐり、17もの近隣国といざこざを起こしている。だが、台湾を別にすれば、インドほどその緊張が本格的な戦争に発展する恐れがある国はない。

インドと中国は、かれこれ3年以上にわたりヒマラヤ山脈地域で軍事的な対立を続けている。きっかけは2020年5月に、インド最北端のラダック地方に中国兵が侵入してきたため、インド軍と小競り合いになったことだ。これを機に、両国ともこの地域の兵力を増強し、それがさらに激しい衝突をもたらした。

このときインドは、全面的な戦争に発展する恐れがあったにもかかわらず、軍事的にきっぱり立ち向かうという、21世紀の中国に対してどの国もやったことがないことをした。

実は、現代インドと中国は、最初から国境を接していたわけではない。1951年に、中国が資源の豊富なチベットを強引に併合したため、ネパールやブータン、ミャンマーと共に中国と接することになったのだ。

チベットという緩衝地帯がなくなると、中国はインド北部に直接ちょっかいを出し始めた。その結果が1962年の中印国境紛争だ。このとき、一定の領土を獲得したという意味では、中国は勝利したかもしれない。しかし、かつて友好国だったインドに平和主義を捨てさせ、軍の近代化に突き進ませることになった。

あれから60年、歴史は繰り返している。中国軍とインド軍の兵士数万人が、複数の地域で長期にわたってにらみ合い、散発的に衝突しているのだ。62年の中印紛争のときでさえ、軍事的な衝突は32日で終わった。

中国の習近平(シー・チンピン)国家主席は、最大の隣国インドを永遠に敵に回したことにより、中国の長期的な利益を傷つけたことに気付くだろう。なにしろ中国の攻撃を受け、インドはアメリカに急接近するとともに、軍備増強を加速させている。極超音速巡航ミサイルや、ハイブリッドな魚雷型ミサイル、対レーダーミサイル、そして大陸間弾道ミサイル「アグニ5」など、最先端のミサイルシステムの発射実験を繰り返している。

おかげで中印関係は史上最悪の状態にある。インド国民の中国に対する印象も、62年以来の低水準だ。

習の歴史修正主義的な措置は、日本とオーストラリアの戦略的姿勢にも過去にない変化をもたらした。日本政府は2027年までに防衛費を倍増する目標で、第2次大戦後こだわってきた平和主義的な安全保障政策を事実上放棄した。オーストラリアも米英豪の新しい防衛協力枠組みAUKUS(オーカス)に参加した。

中国の領土拡張は「サラミ戦術」、すなわち国境地帯を少しずつ侵食し、いつの間にか相手国が領土を失わざるを得ないような戦略を取ってきた。南シナ海の岩礁に島を造成して、軍事施設を構築し、「中国の一部」という既成事実をつくっているのがいい例だろう。

習は今、この戦略をヒマラヤでも展開しようとしている。インドやブータンやネパールとの国境地帯に新しい村を次々と建設して、サイバー戦争の基地や地下弾薬庫を設けたりすることで、戦略的に重要な地域への支配力を強めているのだ。

中国は国際的なルールや規範も無視する。例えば、近年のブータン領内への侵入は、「国境の現状を一方的に変更するような行動を取らない」という1998年の2国間協定に違反するものだ。ラダック侵入も、インドとの一連の合意に反する。

つまり中国は2国間合意を破る常習犯であり、なんらかの合意を結んでも、その領土拡張意欲に待ったをかけることはできないようだ。

経済力と軍事力の両方が増大するのに従い、中国のこうした冒険主義的な傾向は強くなってきた。現在、中国の軍事費は1995年の10倍ほどに増えており、海軍の保有艦艇数は世界一で、沿岸警備隊(中国海警局)も世界最大となっている。ミサイルや核兵器の備蓄も拡充してきた。

だが、中国の冒険主義は、かえって中国に不利な状況を生み出している。膨張主義的な政策は世界中で反発を招き、アメリカとの戦略的対立を根深いものにした。日本とインド、そしてオーストラリアは、中国を中心とするアジアの誕生を許すまいと、決意を固くしているように見える。

中国にとっての「悪夢」が現実に

習は20年のラダック侵入にゴーサインを出したとき、大きな誤算をしていたようだ。インドが軍事的に押し返すことはなく、中国のプレゼンスを受け入れると踏んでいたようなのだ。だがインドはこれ以降、中国の前方展開に匹敵する以上の装備をこの地域に投入してきた。

そこで習は昨年12月、ラダックから2000キロ以上東に位置するインドのアルナチャルプラデシュ州に中国軍を侵入させて、インドの防衛を圧倒しようとした。だが、ここでも中国軍はインド軍に撃退された。それでも習は、同州を「南チベット」と呼び、その領有権を主張した。

このためインドは今、台湾が完全な自治権を維持するかどうかという問題に利害関係を持つようになった。もし台湾が無理やり中国に「統一」されれば、オーストリアほどの大きさのアルナチャルプラデシュ州が次のターゲットになるかもしれない。

米海軍の制服組トップであるマイク・ギルデー海軍作戦部長は昨年8月、インドは中国に2つ目の戦線を突き付けていると指摘した。「今や中国は、南シナ海や台湾海峡のある東部に意識を集中しつつ、肩越しにインドにも目を配らなければならなくなった」というのだ。

長い間、中国の安全保障にとって、アメリカとインドが同盟関係を結ぶことは悪夢と考えられていた。だが、インドのナレンドラ・モディ首相が和平を提案したとき、習は中印国境を破るという「返事」をすることで、米印同盟が誕生する可能性を高めた。たとえそれが非公式の同盟関係だとしても、その結果は中国にとって楽しい夢にはならないはずだ。

日本への影響

中国がヒマラヤ地方で進める領土拡張戦略が限定的な戦争を招けば、習が台湾や尖閣諸島に割けるリソースはそれだけ限られてくる。他方、中国はたとえ法的拘束力のある2国間協定や国際規範でも容易にそれを破り、現状を変えようとする。

日本がこの振る舞いから学ぶべきことは主に3つ。まず2国間関係を改善しても、中国がそれを尊重して領土拡張を控えたりしないこと。第2に、経済的な相互依存が深まっても、むしろそれを利用すること。第3に、守勢に回れば中国は一段と領有権を侵害する。日本は平和主義的で消極的な態度は捨て、中国に対抗していく必要があるだろう。

ブラマ・チェラニ(インド政策研究センター教授)