近頃、国内政治とそれを取り巻く言論環境について、強い違和感を覚えることが増えている。
発端は、国内政治に関する私見をX(旧Twitter)に投稿したことだった。内容は、岸信介に象徴される戦後保守の感情的基盤――とりわけ敗戦や占領体験から生じたルサンチマンを、無批判に継承することの危うさを指摘するものである。これは特定の政策や人物を罵倒する意図ではなく、戦後日本の政治思想がどのような感情によって支えられてきたのかを問い直す、歴史的・構造的な問題提起だった。
しかし返ってきた反応の多くは、内容への反論ではなかった。
「思い上がるな」「左翼だまれ」といった言葉が並び、議論は成立しなかった。
意見の是非ではなく、発言すること自体が否定されるような感覚を覚えた。
同調圧力と扇動的なやり方に対し、「ナチス的手法と似た構造を感じる」と指摘したところ、さらに強いラベル貼りで排除された。ここで言いたかったのは思想の同一視ではなく、
異論を封じる
敵味方に単純化する
多数で威圧する
という手法の類似性である。
この経験から、次の疑問が浮かんだ。
もはや「おかしいことをおかしいと言う」こと自体が、許されにくい社会になっているのではないか。
重要なのは、多くの人が「考える力」を失ったわけではない、という点だと思う。むしろ、考え続けることを公に示すのを諦めた人が増えたのではないか。考えることはコストが高く、発言すれば攻撃される。その環境では、人は思考を外注し、分かりやすい陣営やスローガンに身を預けがちになる。
この状態は、歴史的に見て健全とは言い難い。ローマ帝国の末期にも見られたように、
異論が忌避され
誤りを修正する力(自浄能力)が弱まり
熱狂が自己増殖する
社会は、外見上は安定していても、内部から脆くなっていく。
「このままでは国が滅びるのではないか」という危機感は、誇張ではなく警告である。滅びは突然訪れるのではなく、「考える市民」が静かに黙っていく過程で進行する。
それでもなお、完全な絶望には至っていない。なぜなら、
この状況を「おかしい」と感じ、言葉にしようとする人が、まだ確実に存在しているからだ。数は少なく、可視化されにくいが、その感覚が失われていない限り、社会はまだ修復可能だと信じたい。
この文章は、特定の立場を押し付けるためのものではない。
ただ、議論が成立しなくなりつつある空気そのものに対する、ひとつの記録である。