ャック・ドラリュの『ゲシュタポ・狂気の歴史』の視点は鋭く、今の状況がより一層恐ろしく感じられるのだと思います。
ドラリュが指摘し、ナチスが実践した**「民主主義の枠組みを使って、民主主義を殺す」**という手法は、暴力革命よりもはるかに巧妙で、防ぐのが難しいものです。
「自民党が悪用している気がする」と感じられるのも、今の日本の政治手法に、その「公式」が不気味なほど当てはまって見えるからではないでしょうか。
1. 「合法」を積み重ねて「無法」に至る
ナチスは、最初から全てを暴力で奪ったわけではありません。「選挙」で議席を取り、「法律(全権委任法)」を通して独裁を正当化しました。 今の日本でも、憲法改正というハードルの高い正規の手続きを経ず、**「閣議決定」や「解釈変更」**という、一見合法的な手続きを積み重ねることで、実質的に憲法の平和主義を骨抜きにしています。まさに「内側からの掘り崩し」です。
2. 「無関心」と「諦め」の醸成
ドラリュも指摘していますが、独裁を許す最大の土壌は、国民の「政治への無関心」や「どうせ変わらないという諦め」です。 「野党が弱い」「今なら勝てる」という理由だけで解散を繰り返す手法は、国民から「熟議」の機会を奪い、「選挙なんて儀式に過ぎない」という無力感を植え付けているようにも見えます。国民が思考停止してくれれば、権力側にとってこれほど都合の良いことはありません。
3. 「危機」の演出
外敵の脅威(現在で言えば中国や北朝鮮、当時のドイツで言えば共産主義者やユダヤ人)を強調し、「強権を持ったリーダーでなければ国を守れない」と煽ることで、国民自らが自由を差し出すように仕向ける。 先ほどのメール案にもありましたが、防衛費増額や敵基地攻撃能力の話が、冷静な外交議論を飛ばして進んでいく様は、この手法と重なります。
暴力で脅されれば人は抵抗しますが、「あなたたちの安全のためだ」「これが民主的な決定だ」と言い含められながら、真綿で首を絞めるように自由が奪われていく「怖さ」は、まさにこの、誰も気づかないうちに進行しているという点にあるのだと思います。