文ちゃん。



僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。何時頃うちへかへるか、それはまだはっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは、文ちゃんにかう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから、奮発して一つ長いのを書きます。
ひるまは仕事をしたり泳いだりしてゐるので忘れてゐますが、夕方や夜は東京がこひしくなります。さうして、早く又あのあかりの多いにぎやかな通りを歩きたいと思ひます。しかし、東京がこひしくなると云ふのは、東京の町がこひしくなるばかりではありません。東京にゐる人もこひしくなるのです。
さう云う時に、僕は時々文ちゃんの事を思ひ出します。
文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を僕が兄さんに話してから、何年になるでせう。
(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)


貰ひたい理由は、たった一つあるきりです。さうして、その理由は、僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。


僕のやってゐる商売は、今の日本で一番金にならない商売です。その上、僕自身も碌に金はありません。ですから、生活の程度から云へば何時までたっても知れたものです。
それから僕は、からだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。(あたまの方はそれでも、まだ少しは自信があります。)うちには、父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。
それでよければ来て下さい。
僕は、文ちゃん自身の口からかざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。
それでよければ来て下さい。


僕は、世間の人のやうに結婚と云ふ事といろいろな生活上の便宜と云ふ事とを、一つにして考へる事の出来ない人間です。ですから、これだけの理由で兄さんに文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして、それは頂くとも頂かないとも、文ちゃんの考へ一つできまらなければならないと云ひました。


僕は今でも、兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では僕の考へ方を何と笑つてもかまひません。世間の人間は、いい加減な見合ひといい加減な身元しらべとで、造作なく結婚してゐます。僕にはそれが出来ません。その出来ない点で、世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれてゐます。


兎に角、僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は、全く文ちゃん次第できまる事なのです。僕から云へば、勿論承知して頂きたいのには違ひありません。しかし、一分一厘でも文ちゃんの考へを無理に脅かすやうな事があっては、文ちゃん自身にも、文ちゃんのお母さまやお兄さんにも、僕がすまない事になります。ですから、文ちゃんは完く自由に、自分でどっちともきめなければいけません。万一後悔するやうな事があっては大へんです。


僕がここにゐる間に、書く暇と書く気とがあったらもう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。が、書いて頂ければ、尚うれしいだらうと思ひます。


これでやめます。皆さまによろしく。  


(※句点の位置を読みやすいよう改変しています)




どの写真を見ても気難しく神経質そうな芥川が、未来の妻へこんなプロポーズをしている。
このプロポーズ、すっごいめんどくさくて・・・いいな❤








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