前回、父と母そして長姉を初めとして3人の姉様の事に触れた。

事の経過とはまさに不可思議なもので一つの思い出が次々と結びついてくる。

人生の総仕上げの時期に入っている中で、多くの思い出の品々を整理しているが

その中で最後まで持ち続けていたいものがある事は言うまでもない。

その一つがこれから触れる父の弔辞である。

これは父が80歳を過ぎて母と共に病院にお世話になっていた折に

見舞いに行った時に「これを読んで欲しいと」と言われて渡されたものだった。

それはなんと!父が自分のために書いた弔辞であった。

明治38年生まれの父は既に町内会では最長老の年齢になっていたので

町内の自分をよく知っている人たちが殆んど先立ってしまったため

自分が亡くなった後、誰も弔辞をしてくれる人がいないと思い自分のために書いたものであった。

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弔辞 ①

これから貴方の商売での一番印象に残った一節を読み上げお別れの言葉といたします。

それは数多いお客様の中から特にハキハキして元気のよい人で川前の根田さんのお話しをでございます。

この人は当時の海軍軍人として入団した人でキビキビした愛嬌ある好男子でもありました。

・・・ある日の事 店頭に来て

「オーイ居たか」と呼ぶ人がありました。

中から中村さんが出てくるとやはり川前の根田さん

「ズボン買いに来たから見せろ」というのでズボンを出して見せると値段はいくらかと言うので

「ハイ 一足三円八十五銭です」と申し上げれば

「では買うから三円にまけろ」とおっしゃるので そんなにまけるわけに行かないのでとてもこまりました。

色々なぐさめて誠意を以て頼めば最後に十銭たして三十四銭に迫るが

然しまだまだハイと言って買ってくださいと言えません、

すると根田さんはサット立ち上がりまたくるとておかえりになった。

それから翌日も又 次の日もと言うように毎日6日間も来店して

その都度十銭ずつたして 「売れ」をくりかえすのでした。

結局一足三円八十五銭をまけろと言う三円からせり上げたので

売り手もこの辺でと思い 根田さんに向かい、「然らばあと一銭たしてください」とたのみました。

根田さんは一寸変な顔をして 「その一銭ならヨシ買う」 と出たので

売り手が思わず手をトントンとたたいてハイきめました・・。

 

それから根田さんもシッカリ屋なのでこのズボンはよそではどの位に売ってるだろうと

西根の商店は勿論 沼宮内方面迄見て比べてみたら何とこぞって

どの店も4円以上だったと言う後からの述懐でした。

それからという事には根田さんの部落の各戸からお買い物客がゾロゾロ出てくるにぎわいでした。

その中の順之助さんの「ががさん」(今は奥さんとよぶ)等は毎日のように買い物にお出でになり

仲間の人達も多く一寸不思議でした。

そこで根田さんは冗談をとばし 「私は一銭たしてズボンを買ったから一銭出してお参りしたような物で

イッセンマイル 即ちおいせ参り

などと新語をつくった事にもなり そのおかげを受けて幸いして

貴方のお店は益々繁盛して幸運を蒙りました。

以上でお別れの語(「ことば)とします。

どうぞ 佛様の世界に参りましてもなお一層御修養に努め 

尊いみ船にのりお釈迦様のお国におつきになり

最高のみ光を仰ぎ立派な仏様となりそのご光を地上の私共の世界にもご放写され、

一層ご加護くださいませ

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父はこの様に自分が常に正直に、誠実に商売に取り組んできたことを

ユーモアを交えて書いていたのである。

私が「これは素晴らしい!もっといっぱい書いてくれると私達に大きな思い出になりますから」:

と言った時、父は「お前さんには励まされるなあ」と言ってニコッと笑ったものだった。

次にもう一つ、これも二つ目に書かれていたものである。

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朝まだ暗い早朝にお店の前の路上をセッセとはき清める人はやはりこの人中村さんでした。

まだ暗いので人通りもないのに暗いやみの中でさえるようなお声で

「お早うございます毎度有難うございます」と連発、愛嬌のある態度でセッセトとはき立て居ます

隣のAさんは初め不思議に思い、人影のないのにご挨拶するのでコッソリ近寄って見たが

ただ一人なので突然声をかけて「どなたとお話しですか」と伺えばこの人は

平然とした態度で「誰もいません」とおっしゃる

どうしてですかと重ねて訪ねると平気な平気なこえで

「たれも居なくとも人があったら悪い気もしないでしょう」と大信念でオッシャル

つまり、之程物事に熱心になれば家業とて繁盛しない事はないと一人で脱帽感心致しました

さて

次は名誉職時代に入りますが

先ず平舘商店会長の頃 連合売り出しの段取りに入り

歌の上手な歌手をたのみその都度大変喜ばれ盛光を極め成功致しました

歌はやはり、神代の昔からの娯楽の原点とも申される所以で今に続いている事でしょう

次は招待旅行で湯瀬温泉を初め つなぎ 鶯宿等の温泉は人気もよく好評を博しました

又東京遊覧旅行も催して大方の羨望であったが第一回の東京行きの車中に於いて

年配のお客様がトラブルを起こしソレッキリ中止して一回だけで商店会の責任上中止して

今に至っております。特に招待旅行や歌のショウは益々人気がありその流れは今に続き

人気の基調ともなりました

以上でお話しは終わります

どうぞあの国に参りましても益々ご修業に努め立派な行佛様になりそのみ光を

地上の私共のみんなへお送りくださるよう御願い申し上げます。

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父はこの二つの自分への弔辞を残してその半年後に旅立った。

この文章は父の書いたものをそのまま、再現したので少しわかりにくい部分もあると

思われるが私にとってはこれは父の残してくれた最高の遺産であると今でも信じている。

歌手をたのみ と言うところではあるが父はやはりこうした庶民の一番欲している事を見抜き

それを即実行に移したのであった。

私の記憶ではその後、中要呉服店(当時の商店名)単独で大売出しを行い、

当時の最高のアイドルであった松山恵子や三沢あけみを呼んで県立平舘高校の体育館を借り切って

お買い上げ○○〇円以上のお客様を招待したのである。

30代で早逝した姪の福子が小学生時代、アイドル歌手たちに花束を渡した姿も忘れられない。

これは昭和30年代の後半だったと思う。

父がこの様に自らがこれぞと思う業績を思い出を込めて書き残していたことが愛おしい思いである。

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このブログは昨年末に書いていたのだが自分の体調などがすぐれずやっと書けたものである。

2022年1月14日