ネジりはちまき記録帳

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長兵の鍛造工場にて

※「長兵」とは、「三菱重工業長崎兵器製作所」のこと。

 

(5)当時を振り返って

 近頃バスに乗って街を通りますと、様々の型をした車がどこからか溢れ出るように、とめどもなく走って行きます。そんな光景を眺めているうちに、バスは八千代町のガス会社の前を通りかかりました。タンクはきれいな銀色で太陽にキラキラ輝いています。そして、どのタンクも大きくふくらんでいます。

 あの頃、このうちの一つでもいいからあったら………と思いました。あの頃のガスタンクは、くすんだ黒っぽい色をしてペッチャンコでした。増産、増産で、ガスは重工業に行ってしまうのでしょう。家庭で雑炊やお芋などを炊こうとしていてもガスは出ませんでした。お湯を沸かそうと薬罐をコンロに掛けておいても、蛍のような火がいつの間にか消えてしまって、薬罐の中は水のままです。そして、消えたガスは匂いもしないのです。それが空襲警報となると、各重工業で警戒態勢に入り、火を止めるためでしょうか、ガスが出るのです。

 でも、その時は各家庭では一切の火は消さねばならないので、今ならお湯も沸く、お芋も煮えると思っても、その時は防空壕にジーとしていなければなりませんでした。

 あれから、もう二十七年になりますが、銀色に輝くガスタンクの傍を通る度にペッチャンコになった燻すんだガスタンクが二重になって瞼に浮んできます。

 原爆の日に、逃げて暫く本原の畑の中にいましたが、現在十余年その近くに住んでいます。当時、防空壕代用として空襲の時、かくれていました道下の横穴のような所は、当時は清水のような綺麗な水が流れていました。空襲警報発令のときは、赤迫(あかさこ)の横穴まで行くのですが、そこは余り遠いので、誰が見つけたのか、私たちはそこへ走っていたものでした。長崎造船所が空襲を受けた時は、すぐ近くに爆弾が落ちたような大きな音を聞いて、馬場さんと、ここで抱き合って震えていたものです。今は、このあたり住宅地となって山の上まで家が建ちました。近所なので、度々このあたりを通りますが、当時綺麗だった清水は泡一杯の汚水となり、悪臭を放ってザァザァ流れています。

 もと兵器製作所、現在の長崎大学は学部がいくつも建ち、テニスコートも綺麗に作られ、昔の面影はありません。ただ私たちが通った道路の跡らしいものと二つの門が、形は変わっていますが、元のところに残っています。一番奥が鋼板工場、それから鍛造・鋳造・器具工場、こちらは精密・機械工場のあたりなど見廻しますと、思わず涙がこぼれます。青春をつぎこんで、命がけで働いた所です。その甲斐もなく戦争には負けましたけれど、その間、意地悪されたこともなく、大した失敗もなく過ごすことが出来ましたのは、周囲の温い方々のお陰と今も思っています。

 

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 以上、祖母の手記の写しです。祖母が被爆したのは爆心地から1.1km地点、現在は長崎大学が建っています。当時二十歳だった祖母も九十代になりました。足や背中には被爆した時の傷が残っており、背中には割れた窓ガラスの破片がまだ残っているとのことです。幾度かの手術で背中から取り除いたガラス片はしばらく原爆資料館に展示されていたそうですが、今はどこかに資料として保管されているのだろうということです。

 

長兵の鍛造工場にて

※「長兵」とは、「三菱重工業長崎兵器製作所」のこと。

 

(4)救援列車

 夕方近くになって、また中島さんが見えて、汽車が出るからと知らせて呉れました。中島さんは割に元気そうに見えましたが、矢張りやられていました。それでも私を助けて連れて行きました。中島さんは、馬場さんが向こうにいるからと言って、そこを通りました。

 馬場さんは畑の中に寝かされていました。私は、ひとりで坐ることが出来ませんので、立ったまま馬場さんを見ました。一緒に汽車に乗りたいと思いましたけれど、私自身が一人で歩けませんのに、我侭は言えません。馬場さんは腕時計を差し出しました。彼女のも血痕が一杯ついていました。私は預かってそこを離れました。そして、これが一生の別れになるのではないかと思いました。

 再び歩き出したときに見たものは、枝が無い大きな幹だけの残っている遠くの森でした。

 防空壕の中には、髪を逆立たせた女の人やら哀れな格好の人ばかりです。文化会館にある「原爆の図」よりも、もっともっと物凄いものでした。この光景は一生忘れられません。でも、私は人のことは目についていても、自分の姿は知りませんでした。同じ姿をしていたのでしょう。

 見る限り、まわりのものは皆無くなって瓦礫ばかりです。途中、馬が焼けたのでしょう。転んだようにしています。道という道はなく、私は足が痛いので、中島さんに縋りつくようにして助けて貰って歩きました。西町の線路まで行くと汽車は出たあとでした。中島さんは、また工場の方へ戻りました。一人になると、どうしょうもありません。

 周囲では「水、水」といっています。私も喉が焼けるように乾くのですが、「負傷している時は水を飲んではいけない」と言われていましたので、絶対飲むまいと心に言いきかせていました。そのうちに、あたりがうす暗くなり、やっと汽車が来ました。

 私は、すぐに乗れないでいると、何人かの人が助けてくれました。汽車の中も負傷者ばかりです。私は気分が悪く、掛けていることが出来ないので、シートに横になりました。ボロボロの着物でも着ているのはいい方で、中には殆ど全裸の人もいました。喚き声がします。歩いた方が早いような汽車は途中、空襲を受け何回となく止まり、やっと諫早に着きました。諫早も真暗でした。しかし、諫早は収容するところがもう無いというので、大村まで行って手当を受けたのでした。

 時計をお預りして、畑の中でお別れした馬場さんは担架に乗せられたまま南風崎(はえさき)まで送られ手当てを受け、現在は元気にお過ごしです。

 

(5)につづく

 

長兵の鍛造工場にて

※「長兵」とは、「三菱重工業長崎兵器製作所」のこと。

 

(3)原爆の日

 鍛造工場の私の詰所は、南と東に向った日当たりのよい場所にありました。その日も、空襲警報解除後、いつものように机に向っていました。

 何時ごろだったでしょうか、突然目のまん前に七色の光がものすごい強さで飛び散りました。当時、硫黄マッチというものがありましたが、それを何百何万倍かにした色に似ていました。アッと思った時は、後ろの窓から工場の中にほうり出されていました。

 気の付いたとき、あたりは真暗でした。何が起こったのか判りませんでした。たった今まで机に向い合わせていた馬場美恵子さんの姿も見えません。薄明るくなって見ると、みんな工場の方へ逃げています。私も何が何やら判らぬまま、人々の中へ行きますと、誰かが、

 「辻さん、背中ば見て呉れんね」

と声をかけられましたので、見ると背中の皮がペロリと剥げています。

 「辻さん、ここどうかしとらん」

と言われたので、指さすところを見ると、耳がちぎれてブラブラしています。余りのことに吃驚(びっくり)しました。私は「辻さん」と呼ばれましたが、その人達が誰だったかは判りません。

 兵器製作所と外とを区切る塀は無くなっています。

 いつの間にか誰かに助けられて、逃げる人たちと一緒に純真校裏の川を渡りました。

 途中、動けないでいる人の傍を通りかかったとき、誰かが、

 「〇〇さんの靴を貰って履いたら」

と言ってこの方の靴を私に下さいました。気が付いてみると、私は裸足でした。そして、左の足の甲はグシャグシャでした。足が痛くて、また助けられて、そこを離れました。

 いつも隠れる道下の壕は、もう負傷者で一杯でした。人々は山の方へ行きます。私は動けなくなって芋畑の中へ寝かされました。

 B29が飛んでいます。

 誰か判りませんが、工場の人が代わる代わる来て元気付けて呉れます。ジリジリと太陽が照りつけるので、蓮の葉のようなもので日除けをしてくれました。私は気分が悪く、胸の奥がムカムカして来て、胃液のような黄色なドロドロしたものを沢山吐きました。

 何時頃だったでしょうか、現在のフランシスコ病院の煉瓦建てが赤い火を出し始めました。その間も、人々は山の上の方へ行きます。山の上はなお危険だという人もいました。本原を通り抜け、山越えすると西山に出るのだということを私は知りませんでした。

 血まみれの腕時計はカチカチ動いていました。長崎の殆どがやられていることは知らないので、私は家にいる母や弟妹のことを思って、何事もなく元気にしていると思っていました。そして、この様子をどんなにして知らせたらよいか、何とか考えねばならぬと思うのですが、どうしょうもありませんでした。詰所で一緒の中島諭さんが、どうして見付け出したのか、私の救急袋を持って来て下さいました。

 

(4)につづく

 

長兵の鍛造工場にて

※「長兵」とは、「三菱重工業長崎兵器製作所」のこと。

 

(2)当時の通勤風景

 会社の始業時間は八時でした。でもその頃の(路面)電車は来るものがみな満員で、一時間も停留所で待っていても乗れない時もありました。それで、私は六時二十分ごろ長崎駅前の停留所へ行っていました。もう五分早く、六時十五分頃に行けば、割に楽に乗れるのでしたが、私は寝坊なので母から何度も起こされて、二十分に停留所へ行くのがやっとでした。

 冬の朝はまだ昨夜のお月様が澄んだ色をして残っていて、実に綺麗でした。そして次第に薄明るくなって行くさまは、桐一葉の一節そのままで、「鐘が消してゆく星の数」等と口ずさんでいました。その頃になると、もうズラリと人の列でした。

 やっとの思いで乗った電車が動き出しますと、国鉄の向う側(現在の幸町工場前)には捕虜が点呼を受けているのが目に入ります。戦中派の私は捕虜という言葉に何か特別のものを感じていました。電車の中では、あの人たちを可哀想だと言ってはいけないと囁く人もありました。その後、あの人たちはどうなったのでしょうか。

 その電車の中には幾人かの所謂半島人も乗っていました。彼らは徴用で来た人たちです。私の家のすぐ近所の本蓮寺が、それらの人々の宿舎になっていて、毎朝私と同じ時間に同じ道を通って兵器製作所へ通っていました。私にとっては生れた時からの街なので、灯火管制中の真暗い所でも、この辺りは平気で歩くことができましたが、彼らは大変です。もう無いと思って歩いたら石段があったり、なかったり、また、山門の横木がどの辺りか見当がつかずに転倒したりしますので、可笑しかったり可哀想だったりです。鍛造工場の人も何人かいました。

 そのうちに木村安寧さんという人がいました。この人は私より一つ年下でした。日本で生まれ、両親は福岡にいると言っていました。日本人そっくりで、色白で気立てがよくて、よく人の世話をしているようでした。年長の仲間も彼の言うことはよく聞いていたようでした。原爆投下の時、私の家が焼け、母が小さい弟妹と一緒に逃げる時、木村さんは夜勤あけで寮にいたので、わざわざ私の家まで来てくれて、何かとみんなを元気付けてくれたそうです。

 また、ある朝いつものように電車を待つ列の中にいますと、駅前の旅館に子供が沢山います。そしてチラチラと外をのぞいているのが見えます。修学旅行など思いもよらぬ御時世なのでおかしいなと思っていますと、あれは沖縄からの疎開児童だということが、どこからともなく、私どもの列の中に伝わって来ました。あの時の子供たちは、その後どうなったのでしょう。両親や友達に無事再会することが出来たでしょうか。

 いよいよ会社の正門をはいり、工務課でタイムレコーダをポンと押して外に出て、通用門の近くの曲がり角までくると、そこに掲示板があり、明治天皇の御製(ぎょせい・和歌)が書かれてありました。たしか毎週ごとに変っていたと記憶しています。通る度に頭の中に入れて、日記の一部に書いていましたが、今はもう忘れてしまいました。しかし、お陰で心に沁み入る数々の御製を知ることが出来、とても良い掲示板だったと今でも時々思い出します。

 

(3)につづく

 この話は、私の祖母・内野なか(旧姓・辻) の被爆体験です。

 

『原爆前後 ⅩⅩⅢ』という本に掲載された手記を、祖母の許可を得てブログに書き写しました。

 

少しでも多くの方に読んでいただき、戦争の悲惨さと平和の大切さを感じていただけたらと思います。

 

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長兵の鍛造工場にて

※「長兵」とは、「三菱重工業長崎兵器製作所」のこと。

 

(1)私の職場

 私が初めて大橋工場へ行ったのは、茂里町工場へ勤めてから一ヵ月ばかり後の十七年一月だったと思います。まだ実習生で卒業寸前でした。当時は大橋工場も建設の途中で、建物もすくなく、背丈より高い雑草が生い茂っている所もありました。

 私の勤めておりましたのは鍛冶工場で、ここは物凄い音を立てます。ここで働いている人たちは汗と油でみな真黒で「鍛冶場の黒ン坊」と称されていました。

 大きな真赤に焼けた鉄を鋏んでハンマーで鍛えたり、水圧機で圧さえたり、鉄がまるで飴でも作っているように見えるのです。初めてこの仕事を見た私は物珍しく、いつまでも眺めていたものでした。

 炉の中は、一年中赤々とした焔が燃えていますので、冬は良いのですが、夏は地獄のようです。それでも人々は玉の汗を拭いもせず、ハンマーを動かし続けていました。

 力の強い人々は兵隊へ征ってしまい、まだ少年のような感じのする人たちが養成されていました。一緒に入社した友人は事務屋関係ばかりで、私の所を珍しく思っていました。鍛造工場は工場の奥の方にありますので、友達と約束をして一緒に帰る時も、遠くて時間がかかり、いつも待って貰いました。しかし、現場の汗と油の匂いを知っている私は、より多くのものを学んだような気がしています。


(2)へつづく