其ノ三十二
大谷吉継
近江に生まれた。だが、詳細は不明、一説では、豊臣秀吉の隠し子だったのではという説が流れている。
秀吉が長浜十二万石の大名になったころに、小姓として採用された。
石田三成とは、近江の同郷ということで、若いころから仲が良かったのだろう。

賤ヶ岳の戦いでは、長浜城主の柴田勝豊を調略し、内応させることに成功し、七本槍に匹敵する大手柄と秀吉を喜ばせた。

吉継は、戦ではなく調略にて戦を自軍を有利にすることをしていた。

三成とは、人格者としてひと味違っていた。

それに、秀吉の死後、豊臣政権の命運が尽き、次の覇者が家康になることも予測していたという。

朝鮮出兵の帰国後にハンセン病にかかり、ほぼ失明の状態になった。

秀吉の死後、あの有名な戦がおきる前には、東軍に入ろうとして、上杉景勝討伐に吉継は、家康と三成が和解するチャンスだと思い、仲介の労をとろうと吉継は、佐和山城に立ち寄り、そのことを申し出した。

だが、三成は、打倒家康のために挙兵をするから、吉継も力を貸してほしいと言ってきた。だが、家康に勝ち目はないと言っても、三成の決心は揺るがなかった。吉継は、悩んだ末に三成の同志になることをきめた。

そして、関ヶ原の地でなくなった。