1年ほど前から再燃している、とある二次元の推しがいる。 


20年ほど前だろうか、この推しがいるジャンルに頭の先までどっぷり浸かっていた若き日の私は来る日も来る日も彼に思いを馳せ、例え現実逃避と言われようともその存在に辛い日々を助けてもらっていた。彼が歌う元気を出してくれるようなキャラソンを聴き、落ち込んだ気持ちを励ましてくれる二次創作をネットで漁っては昼夜過ごしていた。そんな彼の姿を想えば傷んでガチガチになった心が緩むのを感じていた。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花という言葉があるが、誇張でも何でもなく、私の目に映る彼の姿は凛と美しく咲く一輪の気高き花そのものであった。私のような地を這う虫が空を見上げればそこに佇むその花は、いつだって枯れることのないそのしなやかで鮮やかな花びらを、朝露に輝くみずみずしい葉や茎を、きらきらとしたまばゆく気高き宝石のように輝かせていた。彼は私の心のよりどころであり、また誇りだった。


 しかし時間とは残酷なものである。やがて転がる石ころのような人生に翻弄されていった私には、時間的、精神的余裕というものがまるでなくなっていき、それと共にだんだん彼の姿を見失ってしまっていくこととなった。今考えれば悲しいことだが、彼の姿を思い出す時間は徐々に減っていった。他のフェイクの宝石のようなまがい物に幾度も目を奪われたりもした。そして、時を経て遂に私の中で彼の姿は跡形もなくついえた。去ったのは彼ではなく、私なのである。あんなに陶酔しきっていた推しを手放してしまうなんて、その程度の感情だったのだろうか。今でも後悔せずにはいられないが、同時に縁とはそういうものなのかもしれないという気持ちも少なからずある。 


 あれから20年程の時が経ったわけだが、その間私は多くのものを失い、また反対にいくつか得るものもあった。人生という大河において流れに乗る人、ただ流される人、色々な人間がいるのだろうが、私は完全に流される側の人間だった。半分溺れながら流れに乗ることも抗うことも出来ずにいて、そして今ははからずも流れ着いた場所であるここにいる。決して楽ではないが、ささやかな幸せも感じられる小さな暮らし。私はそれなりに満足しているし、またいくばくかの不満も抱えている。別にドラマティックでもない、きっと、よくあるつまらない話。私はそんな凡庸を望んでいた。けれども、誰しもが抱えているように、依然として私にも私の日々を脅かす地獄が存在していた。それが時折重い蓋を開けて顔をのぞかせては、私と私の生活をしばしばひどく苦しめた。定期的にやってくるその地獄さえなければどんなに自分は生き易かっただろうかといつも考えた。


そんな折、私は20年前の推しであった彼とひょんなことから再会することとなる。彼は何も変わっていなかった。「よお、お前さん」と片手を挙げて、まるで昨日別れたばかりのようなフランクさをもって姿を現したのである。私はといえばちょうど新たな地獄でのたうち回っていたさなかの出来事であった。彼は、地獄で溺れかける私を救いに颯爽と現れた――のではなく、まるで同じ地獄から顔を見せに来たようにその時の私には思えたのである。地獄よりの使者さながらだ。だがその姿は絶望も悲壮も禍々しさも、そういったものを微塵も纏ってはいない。彼が私の隣に腰を下ろし、手のひらの中から小さな白い花を出す手品を披露してくれる、そんな姿を私は夢想した。20年前と全く変わらぬかの美しい人は、地獄に咲いた美しい一輪の花に見えた。地獄にも花は咲くのだと私は知った。それにしても、なぜ彼は今このタイミングで、20年というはかったような時を経て、ここで足掻き続けている自分のもとに来てくれたのか。柄にもなく案外ロマンチストな自分は運命を感じずにはいられなくなった。何よりやはり彼の魅力に改めて惹かれ、傷む心身を引きずりながらも、私は再び彼の姿を追うこととなる。


 不惑を超えてもなお、些細なことに傷付き、つまらないことに心を砕く脆い私を、推しは昔のように慰めてくれたりはしない。ただそこに凛として咲くだけである。変わったのは私だろうか。あなたはただそこにいればそれでいい。地獄という名の現実の片隅に。それだけで私はここでがむしゃらに藻搔き、僅かに呼吸することができる。ただ、願わくば一度、彼とふたり、この地獄で踊ってみたいものだ。私の拙いステップを見て、あなたは笑うだろうか。笑うだろうね。私はあなたとこの地獄でまた相見えることができて、幸せです。地獄は相変わらず私に優しくないし、ずっと辛いけれど幸せです。