nefertiti 通信

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日々の雑感

地中海に面したエジプト第2の都市アレキサンドリアから、エジプト家具と身の回りの出来事を綴っています。

ある鑑賞会で、大学生が語った映画の感想が妙に気になったことがあった。語られた内容は、物語を自分の感情から紐解くというより、ネットの“考察系”動画のように象徴や裏設定を探り、解答を提示する調子だった。そのとき感じた違和感は、近年のアニメ映画界隈に広がる考察文化の影響を象徴しているように思える。

 

SNSや動画配信サイトを中心に広まる「考察系」文化は、作品中の細部や背景設定を拾い上げ、制作者の意図や裏設定を推測し、伏線を体系的に整理して共有するという楽しみ方を広めた。これは本来、作品への愛着や観察眼の延長であり、物語世界を深く味わう一手段にもなりうる。

 

しかし、この文化が過剰になると、いくつかの弊害が生じるように思う。

 

「自分は何を感じたのか」という内的体験が後景に追いやられることである。観客が感情よりも「正解」や「隠された意味」に急ぐと、作品がもたらす一次的な衝撃や余韻が希薄になる。例えば『名探偵コナン』劇場版でも、アクションや人間関係の熱量よりも、過去作とのつながりや伏線の位置づけが議論の中心となりがちである。

 

そして、考察が「読みの優劣を競う場」と化す点が挙げられる。より緻密で複雑な解釈を提示することが価値とされ、他者の感想や異なる受け止め方が入り込みにくくなる。この傾向は、作品理解の幅を広げるはずの対話を、一方向的な講義や解答発表に変えてしまう。

 

何より、作品が「考察の材料」として消費される危険性がある。裏設定や象徴解釈が注目されるあまり、制作者が描こうとした人間の感情や物語の骨格が脇に追いやられる。あたかも「裏を読めない作品には価値がない」かのような態度は、物語体験を著しく偏らせる。

 

この問題の本質は、90年代のアカデミズムでも議論されていた。、芸術作品の「感覚的経験」と「知的解釈」のバランスにある。スーザン・ソンタグが1964年のエッセイ『Against Interpretation』で指摘したように、過度な解釈は作品の直接的な感覚的インパクトを損ねる危険がある。90年代には、このテーマがポストモダン批評や文化研究の文脈で広く論じられ、特に映画や文学の受容において「感情的体験の軽視」と「解釈の優位化」が問題視された。

 

しかし、現代のネット時代における「考察文化」の爆発的な広がりは、この古典的な問題をより顕著にしている。つまり、観客が「感じること」よりも「解くこと」に没頭するあまり、感情的な映画体験の深みが失われがちだという点だ。90年代の議論はあくまで学術的枠組みの中で行われていたが、今日ではSNSや動画配信という新しいメディア環境のなかで、この問題が一般層にも広く波及しているように感じる。

 

また、現代の考察文化においては、知識の披露を競い合う傾向も強い。細かな裏設定や伏線をいかに網羅的に語れるかが、評価の基準となり、その知識量によって自己承認を求める側面が生まれている。この状況は、かつて90年代のアカデミズムで問題視された「解釈の優越性競争」にも通じるものがある。

 

本来、映画を語ることは、自らの感情や違和感を起点に、その理由を掘り下げ、作品の構造や社会的文脈に接続するという順序をたどるものである。だが、考察系文化がこの順序を逆転させると、感情は理論の従属物となり、映画体験の厚みが失われてしまう。

 

細部を読み解く知的な遊びは、映画の楽しみの一部であることは確かだ。しかし、それが鑑賞の中心に置き換わるとき、作品が本来持つ感情の力は薄れ、観客は「解くこと」に忙しくて「感じること」を忘れてしまう。

 

映画を語ることの本質は、物語の裏に隠された「正解」を当てることではないだろう。むしろ、曖昧で複雑な感情をなんとか言語化しようとする試みであり、そこでは物語を「解く」ことではなく、読み解けない感情を「受け止める」姿勢なのかもしれない。

 

2004年にエジプトで公開されたこの映画はわたしにとっても思い出深いものだ。

現在も活躍する実力派俳優陣が揃う、彼らが若かりし頃のアンサンブル映画で、今見返せば、新しさは感じられないが、当時のエジプトでは、性的な問題をオープンに取り上げたという点で、映画史のなかでブランチポイントとして捉えられている。

 

映画のストーリーは単純なものだ。3組の既婚者と独身の古くからの知り合いが抱えるそれぞれの夫婦間、恋人間の問題を描いている。それぞれのパートナーが抱える問題は、個別なものでありながら、他の友人たちと間で絡みあい、波紋を広げていく。物語はサブストーリーに分けれているが、同時進行的にそれぞれが解決に向かうようにできている。

 

この映画は、タイトルと同名のFairuzの主題歌とともに大ヒットした。映画のなかで、友人の男性たちが、カイロからアレキサンドリアへ向かう車中でふざけて歌い、ラストの結婚式の場面で流れる。

 

監督Hani Khalifaは、このラストの結婚式のシーンで、解決したように思われる問題がまだ、その途上であることをウィットを持って描いている。

 

浮気癖が問題であったカレドは、円陣でダンスを踊る際に、隣にきた女性の肩に手を回そうとして、その手を慌ててもどし、ファラは、夫への過干渉をやめようとするが、仲睦ましく踊る場面でも、夫のネクタイを治してしまう。夫との性的な関係に不満を持っていたムシラは、若いの男性に惹かれていくが、思いとどまる。しかし結婚式には、その男性にプレゼントされた金のネックレスをつけている、など。

 

この映画を映画館でみたとき、隣で一緒に見ていた人の目に光るものが見えた。どこにも泣けるような場面はない。自分の過去に重なるのだと言った。その時の涙は本物だっただろうけれど、奇しくも、エジプト人監督が最後にウイットで示したように、人の本質的なところは変わらないということを、この映画は未来のわたしに教えてくれていた。

 

この映画に登場する二人の俳優を実際に見かけたことがある。 そのうちの一人がKhaled Abol Naga である。彼についてはまた、書きたいと思う。

 

 

 

 

エジプトで最も有名なCMソング"Always Together"、これは2012のラマダンに流れたMobiNil(エジプト最大の携帯通信会社)のスポンサー曲で、この曲を知らないエジプト人は当時も今もいないだろう。

 

2011年の政変(アラブの春)の後、苦しい状況におかれたエジプト人の愛国心を鼓舞した功績は測りきれない。

 

4分を超えるミュージックビデオで、冒頭は庶民的な服装の若者が瓶ケースに座り、ギター持って歌い出すところから始まる。それに合わせるように、別の場所で女性がベランダで水をやりながら歌い出す。女性は髪を隠すヒシャーブをしておらず、身なりから中流階級の女性として登場している。

 

このあとシーンはエジプトのさまざまな地域のさまざまな文化を映し出す。砂漠やアスワンの風景が美しく、カイロの雑踏さえも輝いてみえる。方言を使い、昔から今も続く独特のエジプト文化と現代の若者のサブカルチャーを上手くミックスして映し出す。

 

ここで示されているメッセージはただひとつ、歌のタイトルである、we must be togetherである。 「なぜなら、自分たちはひとつの土地に住んでいる。離れ離れになってはいけない」というものだ。

 

この曲は、エジプトという国で暮らす異なる属性を持つ、すべての社会集団をターゲットとしているが、それが稀有に成功している例といえる。

 

おそらく同様の曲が今後作られたとしても、同じような熱狂を持って、迎えいれられることはないだろう。この曲があの時に流れていたという意味以上の重要さを超えるものはないからだ。


今、見返してみると、街のなかやバスといった公共の場以外では、男女が一緒に写っている場面はない。結婚式のシーン以外はほぼ男性の社会集団の場面と言っていい。このアンバランスさに当時意識が向かなかったのは、このミュージックビデオがあまりにもよくできていたからだと思う。

 

最初の場面の男女は、物理的な場所としては一緒にいないし、知り合いのようにも見えないが、歌声が親密に重なっていく。そして、最後に流れるメーキングのシーンでは、サビが男女混合の合唱で入る。その一体感は半端なく、見ているものを高揚させる。

 

 

日本ではラグビーワールドカップの影響で、ワンチームという言葉が流行ったが、2011年のエジプトでは、イド ワハダ という合言葉があった。One hand の意味である。

 

この"Always Together"は、One hand の在りようを具現化してみせることに成功した、非常にレトリックに長けたコマーシャルソングだった思う。