以前、ホームセンターで「ブロッコリーの芽」を買ってきたことがある。貝割れ大根そっくりの写真が載った袋には、胡麻のような茶色の小さな種子がたくさん 入っていた。トレイに乗せて水を含ませたティッシュの上に種を置いておくと、発芽する。毎日わずかな水をやるだけでぐんぐん育つ。トレイの上の家庭菜園。
芽が出たばかりの頃は、かわいらしい。でも、それは成長するにつれ、生き物であることを主張するようになる。台所脇から入る光の方向へ、頼りなげな白い茎 と小さな葉を、懸命に差し向ける。その足元では、細く短い根がティッシュから離れるまいと、しがみついている。僕は、夕食のサラダにするに十分な大きさと なったそれを、摘み取らなければならなかったのだけれど、ひょろ長い体に生命力をみなぎらせているその根元にハサミを入れる時、ある恐ろしさと気味悪さを 感じたほどだった。こうした出来事があると、僕が毎日食べているものは「生き物」なのだったと、ようやくに思い出す。つい何日か、何時間か前まで生きて、 活動していた生き物を飲み下さなければ生きていかれないとは、恐ろしい仕組みだと思う。空腹になれば食べたくなるし、食べ、食べられることが自然なのだと は思うけれど、「捕食される」とは、一体どんなものなのだろうと考えると、やはり恐ろしい。
僕の頭部が備えている、唾液にまみれた歯肉に石灰質の杭を植え込み、他の生き物の組織を裂き、すりつぶすためのこの口という器官が、醜悪なもののように思えてくる。
この本は、「歴史を変えることができた数少ない本のひとつ」と評されることもある、その方面では古典的な著作だ。著者のレイチェル・カーソン (1907-54)は、アメリカ商務省・農務省で海洋生物学者として公務に携わる傍ら(1936-52年)、主に海に関する作品群によって、作家としての 名声を確立した。そして1958年に受け取ったある友人からの手紙によって、「沈黙の春」の執筆を決意し、それから4年の間うず高い資料に埋もれ、 1962年に遂にこの作品を完成させ、発表した。化学薬品(主に農薬)の無秩序な使用による自然破壊に警告を発したこの作品の影響は大きく、世界中で、化 学薬品の使用を制限する法律の制定と、人々の意識の改革を促した。

先進諸国における化学薬品の使用状況は、本書が執筆された時代からする と、現在は幸いにも比較にならないほど改善されていると言えるだろう。公的機関が害虫防除のために、市街地を含む広大な範囲に空から雨あられと化学薬品を 散布するなどということは、現在ではまず考えられない(逆に言えば、つい数十年前まではこのようなことが行われていた)。この改善は、まさに本書に端を発 する運動の成果であるだろう。

確かに、化学薬品に関する行政レベルの規制は厳しくなったと言える。さらに商業的な側面から考えると、企業 間の競争の激化と消費者の意識向上によって、「安全性」は、あらゆる製品における非常に重要な要素になりつつある。食品、建築、工業ほか多くの分野におい て、人間と環境へ悪影響を及ぼす恐れのある要素を最小限にすることを目指した真摯な取り組みが見られる。今や消費者を完全に満足させるためには、安全性は 不可欠な付加価値であり、その製品から危険な化学薬品が検出されるなどということは、生産者にとっては殆ど致命傷なのだ。

しかし、一方で は、人間はいよいよ自然からは遠ざかってしまっているように思う。人々は、ますますありとあらゆる身の回りの物を殺菌し、消毒しなければ気がすまなくなっ てしまっている。都市化はさらに進み、僕たちはもう、人間が自然の連鎖の中にいるということさえ、意識することが少なくなっている。野菜や肉は、生き物で あったことすら忘れられる。土と水がなければ、僕たちはすぐに飢え、渇いて死ぬという当たり前のことを、意識できない。都市の中では動物は基本的に人間し か存在してはならず、人間を楽しませるわずかな他の生物だけが、生存を許される。「自然は大切だ。でも部屋の中に蚊やダニがいるのは耐えられない。買って きた野菜に虫がついているのもやっぱり嫌だ」。自然と安全を求める訴えも、それが都市の中から叫ばれる限り、どこかで矛盾に突き当たってしまうのは避けら れない。

いったん街を離れ、土の上に裸足で立ってみれば、そこは無数の生物で満たされた宇宙である。本書は二つの側面を持っている。一つ は、化学薬品という、自然環境への具体的な危険因子への警告。もう一つは、「自然」という大きな一つの生命体への考察という、自然科学的な啓蒙の側面だ。 そこでは自然が完全なバランスの上で完成された一つの生物であり、工業製品のようにそれを扱い、手を加えることはできないのだと述べられている。幸いにも この認識は、今日ではかなり一般的になったと言える。このような完全なバランスを持つ自然の中で、人間がそのサイクルに調和して生きてきた時代は、決して 短いものではなかったはずだ。それを思うと、先人の自然に対する鋭敏な感覚に、ただ驚く。

本書について、化学薬品がもたらした功績をあま りに無視しているという批判もある。また、無秩序な薬品使用を招いた官民の癒着の摘発はごく控えめで、その点で追求が甘いとみなすこともできよう。しか し、カーソンは科学的な視野を持った「作家」なのであって、問題を暴き出すことに喜びを感じる「ジャーナリスト」だったのはない。目の前から鳥や虫や魚た ちが消えてしまった。声を上げる理由は、それだけで十分だったはずだ。

本書の発表以前にカーソンが著した、例えば「われらをめぐる海」の ような、偉大な自然を見つめるあふれるような喜びは、ここにはない。あるのは、カーソンが愛した生き物たちの累々たる死骸である。著者は、どれほどの怒り と苦痛を感じながらこの作品を書いたことだろう。カーソンにとって、これは「書かなければならなかった」本なのである。著者は執筆中にガンにおかされ、発 表の2年後に亡くなった。カーソンの指摘は、今も色あせることのない本質的なものだ。僕たちは学ばなければならない。


世間を眺めていると、卓越した才能を持つ人たちに関する情報がよく目に入る。スポーツ、学問、ビジネスなどなど。僕も以前は、自分もそうした能力を発揮できる分野がどこかにあって、それを見つけることができれば一流の成果を上げられるのではないかと思っていた。

自分の特別の適性はどこにあるのか?高校時代から考え続けたけれど、社会人7年目の今まで、結局見つかっていない。代わりにだんだんと分かってきたことは、そうした特別の適性というものは、残念ながら、自分にはないのかもしれない、ということだ。どんな分野へ目を向けても、明らかな天賦の才を持った人というのはいるもので、そうした人たちの持つ強烈なエネルギーを見るにつけ、自分にそれがないことにどうしても引け目を感じる。

でもそれならば、と最近は考える。せめて自分の持つささやかな資質を、最大限に生かせる仕事をしたいし、また、するべきだ。ないものは仕方ないけれど、あるものを粗末にするのはよくない。もしかしてそれだって、誰かの役に立つかもしれないのだから。