9章 実際の脳とモデル脳


33頁というこの短い章は、主に人間の脳の構造についての概説だ。


そこでは、脳の形状や機能のように一般的にもかなり知られているものや、「分割脳」(左右の脳をつなぐ脳梁が切断された状態の脳のことで、左右の脳が独立 した人格を有するようにみえる等の現象が生じる)、「盲視」(脳の損傷によって視覚的には知覚できていないはずの対象の情報が、無意識的に知識として混入 する現象)といった大変不思議な現象の紹介もあり、興味深い。

ただ、特に新しい事実や解釈が示されているわけではない。


本書の論点と関係するのは、最後の約6頁だ。


ペンローズが考えるような、量子論特有の物理現象が脳において効果を生ずる余地はあるのだろうか?これが論点だ。


著者は、脳がいわゆる量子コンピュータとして機能する可能性に触れている。しかし、脳内はあまりに「ノイズ」が多すぎて量子効果は速やかにノイズの中に消 えてしまうだろうし、そもそも量子コンピュータは非アルゴリズム的演算の遂行はできないため、ペンローズが主張する意識の非アルゴリズム的な性質を説明す ることはできない。


そこで、ペンローズは次のように言う。


「もし脳にとって有用なものを量子力学から得ようとするのであれば、これはこれまでのところたいして有望であるようには見えない。ことによると、われわれ は結局のところ、コンピュータであるように運命づけられているのかもしれない。私は個人としてはそう信じない。だが、出口を見出すには、もっと考察を加え る必要がある。」(452頁)


実はこれは、本書の結論のひとつなのである。あまりにあっさりしているので、読者は結論であることに気づくことさえ難しい。「考察」は次章でも続くが、現 実の脳についての考察はほぼこれで終わりだ。結局ペンローズは、人間の意識において量子的効果が重要な役割を果たしているとしても、それが現実の脳におい てどういう仕組みで起こりうるのかは、本書では全く示していない。


読者が本書に不満を抱くとすれば、一番大きくはこの点についてかもしれない。


しかし私自身は、これは仕方ないことだと思う。ペンローズの主張はあくまで仮説であるうえ、脳科学としては異端で型破りなものであろう。当然、仮説を検証 するための知見もほとんどない状態だったろうし、ペンローズ自身は数学者・理論物理学者なので、自分で脳に関する実験を行うこともできない。現在では、ペ ンローズが主張するような「量子脳理論」も、一般的な脳科学も、さらに進展しているのだろうが、少なくとも本書執筆時点では、脳で量子論的な効果が生じう る具体的モデルが示されないことにつき、著者を責めるのは酷に思われる。


最終章となる次の第10章では、意識と物理的・数学的世界がどうやって結びつくのかという、これまでの議論よりさらに抽象的で根本的な論点が取扱われる。