6章 量子マジックと量子ミステリー
1 はじめに
第5章は古典的物理学のダイジェストだった。そしてこの第6章は、量子論のダイジェストである。そしておそらく、前章よりも本章の方がペンローズの主張にとってより重要である。なぜならペンローズは、意識の特質である計算不可能性の在り処について、量子論に狙いを定めているからだ。
「もし古典的世界が意識をその一部になしえないようなものであるとすれば、われわれの心は何らかの仕方で、古典物理学からの特殊なずれに依存しているはずである。」(257頁)。
本章はコンパクトながら、量子論について多くの話題を扱っている。新書の啓蒙書だったら独立した1冊で扱うべきといっていいほどの内容で、しかも、著者自身も「私はごまかしをしないように努めたので、多少、しっかり取り組まなくてはならないだろう」(259頁)というくらいなので、私も分るまで何回も読み返した。量子論に全く親しみがない状態で本章を読むのは少し無理がある気がする。一般向けの啓蒙書がたくさん出ている分野なので、本章がわかりにくい場合はそうした他の本も参照してみることをおすすめする。
2 量子論について
量子論は驚異的な正確さと実用性を有し、現在の自然科学と科学技術にとって欠くことのできない基礎となっているにもかかわらず、その内容は、人間の感覚からすると非常に奇妙で、未だ解決されていない多くの重大な謎を含んでいるように見える。
例えば量子論が導く現象の一部を書いてみると、次のようなものがある。
・物質は波であると同時に粒子である(これは決して、粒子が集まって波のように振舞うということではない)。
・エネルギーは、ごく小さな尺度においては、不連続で飛び飛びの値しかとることのできない。
・物質の在り方は、複数の異なる物理状態が重ねあわされた状態であり、私達が観測できるのは、そのうち一つが確率的に選択された結果にすぎない。
・物質は、人間が観測しているか否かでその振舞いを変える。
・複数の物質が時空の制限を受けずに相関する。
驚くべきことに、これらは現実に観測結果とも一致しているのだ。特に私自身は、物理状態が人間の観測に依存するという「観測問題」は、にわかには信じ難い。しかし、事実なのである(有名な二重スリットの実験)。
これはまったく個人的な話になるが、私が高校生の頃、「アインシュタインロマン」という全8回のドキュメンタリー番組がNHKスペシャルとして放映された。その第3回「光と闇の迷宮」中で量子論が紹介されており、それを観て、量子論で説明される数々の神秘的な現象に感銘を受けた。それもきっかけになって大学では理系(化学科)に進んだ。本当は物理をやりかたったが、物理が好きなわりに数学があまり得意でなく、あきらめたのだ。結局私は化学すら放棄し、科学者にはなれなかった。
3 本章の読み方
さて、本章の大部分は、意識の問題に直接かかわるわけではない。したがって、前章と同じく、量子論についての著者による素晴らしい解説と思って読めばそれでよいと思う。場合によっては、他の本のもっとわかりやすい説明で置き換えて理解してもよい。
その中で、意識に関するペンローズの主張と関連するため、次章に進む前に確認しておくべきは次のような点だ。
(1) 量子論による粒子の振舞いは、全部が非決定論的であるのではなく、系が量子レベルに留まっている限り、完全に決定論的に発展する。この過程をU(ユニタリ発展)といい、シュレーディンガー方程式に支配される。
(2) 重ね合わせられた量子状態が古典レベルに拡大され、量子状態の違いが直接知覚できるようになると、過程R(「状態ベクトルの収縮」あるいは「波動関数の崩壊」)によって量子状態の中のたった一つが物理的経験の現実として生き残る。非決定論が量子論に入りこむのはここであり、ここだけである。
(3) 現在の量子論では、Rがいつ、なぜ起こるのかを説明できない。
物理学の中で非決定論が入り込むのはこの量子論における過程Rだけであるなら、意識の仕組みはこの過程Rに関係するはずだ。したがって、意識を解明するには過程Rを説明できる新たな物理理論が必要になる、というのがペンローズの主張だ。したがって、次にはこの新たな物理学の手がかりを探すことになる。
4 補足―EPR型思考実験
ところで、本章では、物理的に遠く隔たった複数の物質が相互に影響を与える、物質の非局所性という点について、EPR(アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼン)型の思考実験というものが紹介されている。本文では分りにくいが、他の本によると、当初アインシュタインらは、これをパラドクスとして提案したそうだ。
つまり、量子論に基づけば、Pの量子状態は、十分な時間的・空間的隔たりがあるにもかかわらず、先に観測されたEのスピンとは常に反対向きのスピンになるはすだ。そんな物質間のテレパシーのようなものがあるわけないのだから、量子論には誤りが含まれている、という趣旨だったというのだ。確かに常識的に考えれば、いかにもそんなことは起こりそうもなく、そうした結論を導く量子論を批判するのも無理はない気がする。
論文が書かれた1935年当時は実験によってそれを確かめるのは技術的に不可能だった。しかし後年、まさにこのような実験が行われ、結果はEPR型思考実験が量子論によって予測したものと一致したという。つまり、遠く隔てられた地点で先に観測された一方の結果が、もう一方の物理状態を(光速の限界をも超えて)決定しているらしいのだ。本当に、驚くべきことだ。
アインシュタインらが量子論に対する攻撃として提出した予測が、結局はまさに量子論の正しさを証明することになったわけである。
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