「川の声はあこがれにみちてひびき、燃える苦しみに、しずめがたい願いにみちてひびいた。目標に向って川はひたむきに進んだ。川が急ぐのをシッダールタは 見た。川は彼や彼の肉親や彼が会ったことのあるすべての人から成りたっていた。すべての波と水は急いだ。悩みながら、目標に向って、多くの目標に向って、 滝に、湖に、早瀬に、海に向って。そしてすべての目標に到達した。どの目標にも新しい目標が続いて生じた。水は蒸気となって、空にあがり、雨となって、空 から落ちた。泉となり、川となり、新たに目標をめざし、新たに流れた。しかし、あこがれる声は変わった。その声はなおも悩みにみち、さぐりつつひびいた が、ほかの声が加わった。喜びの声と悩みの声、良い声と悪い声、笑う声と悲しむ声、百の声、千の声がひびいた。
 シッダールタは耳をすました。彼 は傾聴者になりきり、傾聴に没頭しきった。空虚になりきり、ひたすらに吸い込みながら。――彼は今や傾聴を究極まで学んだ。これまでにもうたびたびそのす べてを、川の中のこれら多くの声を、彼は聞いたが、きょうは新しく聞えた。もう彼は多くの声を区別することができなかった。それはみないっしょになった。 あこがれの訴えと、知者の笑いとが、怒りの叫びと死にゆく人のうめき声とが、すべての目標、すべてのあこがれ、すべての悩み、すべての快感、すべての善と 悪、すべてがいっしょになったのが世界だった。すべてがいっしょになったのが現象の流れ、生命の音楽であった。」

― 「シッダールタ」(ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳)より