3 数学と実在

他の章に比べてやや短いこの第3章は、マンデルブロー集合と呼ばれる数学上のある集合についての説明を主としている。この集合について初めて知る読者は、マンデルブロー集合の異様な魅力と存在感に衝撃を受けるに違いない。私はまさにそうだった。

ペンローズがここでマンデルブロー集合について論じる理由は少し複雑で、詳しくは次の第4章で説明されることになる。読者としてはそれはいったん措き、この第3章ではマンデルブロー集合の存在感を単純に味わうのがよいと思う。それが著者の望みでもあるだろう。ペンローズは、マンデルブロー集合がペンローズがいうところのプラトン的実在あるいは数学的真理として確かに存在していることを読者に感じ取ってもらうために、あえて第4章の手前にこの章を置いたのだと思う。
「コンピュータは、実験物理学者が物理的世界の構造を探求するために実験装置を用いるのと、本質的に同じ仕方で用いられる。マンデルブロー集合は人間の心の発明ではない。それは発見である。エヴェレスト山と同じように、マンデルブロー集合はただそこに存在する!」(109頁)
さて、マンデルブロー集合とは、次の定義
zk+1 = zkn + c
 という漸化式をくり返し計算したときに、zk が発散しない複素数 c の集合
で表される複素平面上の集合のことである。
具体的には、例えばいまz0 = 0、n = 2とすると、漸化式の系列は
z0 = 0
z1 = c
z2 = c2+c
z3 = c4+2c3+c2+c ・・・・
となる。この c としてある値を選択するとき、例えば、c=1 なら、上の系列は 0、1、2、5、26、677、458330・・・となり、系列の値は複素平面の原点から際限なく遠ざかっていってしまう。つまり「発散」する。

しかし、c=-i ならば、系列は0、i、i-1、-i、i-1、-i、i-1・・・を繰り返すだけだから、複素平面上のある領域内にとどまり、「発散しない」。つまりこの c の値である -i は、上の定義よりマンデルブロー集合に含まれるということになる。

複素平面上の点 c のうち、このように漸化式を発散させない点をプロットしていったのが、マンデルブロー集合だということになる。以下は、この第3章に掲載されている図を借用したもので、マンデルブロー集合のいわば遠景から、ハート型をした最も大きい領域とそのとなりの領域との間の「谷」へ、次第に倍率を上げて近づいていった様子を示している。


にいのノート(ブログ版)-mandelbrot1


にいのノート(ブログ版)-mandelbrot2


にいのノート(ブログ版)-mandelbrot3


にいのノート(ブログ版)-mandelbrot4


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一番最初の図に現われていた何とも形容し難い形の集合が、同じような形で(しかし完全に同じではなく)拡大された集合の細部にまた出現しているのがわかる。マンデルブロー集合は自己相似でないフラクタルの1つなのである。

マンデルブロー集合を作り出す上のような手続きの単純さに比べ、そこから生み出される複雑さは確かに異常に思える。

それにしても、マンデルブロー集合はなぜこれほどまでに複雑なのだろう。それでいて無秩序・ランダムなのではなく、明らかに、集合の隅々までゆきわたっているある共通の「味わい」があり、何らかのルールがあることが見て取れる。そのルールは何なのだろう。本当に不思議としかいいようがない。マンデルブロー集合のような構造の研究は複素動力学的システムと呼ばれ、数学における1つの独自の分科をなしているという(108頁)。

マンデルブロー集合は、当時IBMに勤務していた数学者・経済学者ブノワ・マンデルブロー(1924-2010)が、ジュリア集合を研究している過程で発見したものだという。コンピュータがこの集合の画像を表示しはじめたとき、最初、マンデルブローはその画像がコンピュータの誤作動の産物だと考えたという(109頁)。

マンデルブロー集合を詳細に描画するには膨大な計算が必要になる。そのため、コンピュータの発展によってはじめて、マンデルブロー集合はその姿を人間の前に現したといえるだろう。

ペンローズがいうとおり、マンデルブロー集合は、人間の道具の発展に関係なく、この世界に複素数が存在するようになった当初から(つまり世界の当初から)、現在と全く同じ姿で存在したはずである。人間がその存在を認識できるだけ十分に進歩するまで、この異様で幻想的な数学的構造が事物の背後で顕在の機会を待っていのだと想像すると、言いようのない感動をおぼえる。

次章では、アルゴリズムによっては決してその真の姿には到達できない数学的存在が、人間の肉眼に見える形で提示された例のひとつである可能性として、マンデルブロー集合が再びとり上げられる。