いつからか、少なくない人間の表現行為のうち、音楽、なかでも、西洋のクラシックと言われる音楽を好むようになった。そして、さらにその中で、J.S.
バッハは私にとって特別な作曲家になっている。音楽を聴き始めた頃のことはもう思い出せないが、バッハとの出会いは、今でも鮮やかに思い出すことができ
る。
高校生の時、文化祭の出し物として、友人2人と組んでヴァイオリン、フルート、ピアノで何か演奏しようということになった。バッハの 作品もその候補に挙がっていた。私はその作品を含むバッハの作品集のCDを自宅近くの公立図書館で借りてきて、自宅の再生機のトレイにCDを乗せ、最初に 収録された作品から再生した。
突然、窓がいっぱいに開け放たれたようだった。それまでに知っていた音楽には感じたことがない広々とした威 厳と、理由は分からない「正しさ」のような感覚が私を打った。音楽というものは、私が考えていたよりも、ずっとずっと遠く、高いところへ向けて開かれてい るのを予感した。
その作品は、バッハの管弦楽組曲 第1番 ハ長調の序曲で、カール・リヒター指揮のミュンヘン・バッハ管弦楽団による演奏であった。今思えば、バッハの作品の中で必ずしも飛び抜けた傑作というわけ ではなかったはずではある。また、それまでにもバッハの他の作品に接したことがなかったわけではなく、どうしてあの日、あの序曲について、私が特別な反応 を示したのか、自分では分からない。それでも、あのとき、初夏の西日が差し始めた部屋の空気が、ある秩序の下に置き直されたような感覚を、私は生涯忘れる ことはできないだろう。
バッハは、音楽の父と呼ばれる。それでは音楽の母とは誰になるのか、考えてみれば面白いとは思うけれど、バッハを 父を呼ぶことにためらいは感じない。バッハが受けるその名誉の意味するところはもちろん、音楽における最も創造的な行為である作曲について、バッハが偉大 な模範を示しているということがあるだろう。たとえば、遠山一行氏がいうように、ピアノを習ったことがある人ならば誰もが練習するであろうあの「インヴェ ンション」、あらゆる音楽家はそこから出発したはずである。
しかし、私のように、音楽を手段として自分を表現する能力を持たない者であっ ても、バッハを音楽の父と呼ぶ権利はある。他の作曲家の作品、ことに近代以後のそれを聴くことは、私にとって、その作品を自分がどう受け容れることができ るかという問題であると思う。バッハの作品を聴くとき、時にそれとは正反対の感覚を抱く。作品に、自分が受け容れられると感じるのである。なぜかというこ とを説明することは難しい。しかしその感覚を、自分が生まれる前から世界を構成していた要素であるものへの信頼、と言い換えられるのだとすれば、それは確 かに、父性と呼ぶべきものなのだと思う。
バッハの音楽を特別に思う理由に、バッハの作品から受け取る、秩序の感覚がある。これは、バッハ の作品が、造形として秩序だって作曲されているという意味では、必ずしもない。もちろん、バッハの音楽には、そうした作品構造においても周到な用意がある だろう。しかし私は、耳だけでは当然のこと、楽譜を仔細に眺めたとしても、そのような構造を明らかにする能力があるわけではないし、構造を分析することで 明らかになるそうした秩序と、私が感じる秩序の予感は、また別のものなのである。もしもハノンを端から弾いていったとしたら、それは完全な秩序の下での音 の連なりといえるのかもしれないが、そこに音楽的感動を見出す人は少ないであろう。
私が感じる秩序とは、バッハの手をもってあのような作 品を書かせた何ものかの存在であり、予感のようなものだ。それは、人間の幸福と不幸とを見つめ、感謝と罵りの言葉をすべて引き受けながら、沈黙を続ける何 か、それでいながら、私のような人間にとって、世界が単なる無意味な偶然の堆積であることを否定するための、最後の拠り所となるものなのである。ヘッセは 「シッダールタ」で、ヴァズデーヴァの隣に座ったシッダールタが、川の流れの音に耳を傾け、世界の完成と統一を悟る場面を描いている。私はその場面に深く 感動させられるが、バッハに私が感じる秩序の予感を、シッダールタが川の響きの中に聞いたものに重ねることは、許されるだろうか。
ヘッセもまた、バッハを愛した作家であった。
1977 年にアメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げた無人探査機、ボイジャー1号と2号は、宇宙のどこかに存在する私たち以外の知的生命に対して、私たちの存 在を示すために、人類に関する様々な情報が記録された金属製のレコードを搭載しているという。そこには55の言語でのあいさつ、多くの自然音や、世界各地 の様々な音楽が収録されており、その中には、ベートーヴェンの交響曲 第5番 第1楽章などと共に、バッハの平均律クラヴィーア曲集の第2巻ハ長調のプレリュードとフーガや、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番のガヴォッ トなども収録されている。
ボイジャー1号と2号は現在、ほぼ太陽系を脱し、それぞれ太陽から約170億kmと140億kmの地点を旅して いる。それらはどこかの恒星の方へ定まった進路を有しているわけではないけれど、もしも最も近い恒星系であるケンタウルス座アルファ星に向かったと仮定し た場合でさえ、そこへたどり着くにはあと8万年はかかるという。私たち以外の生命がバッハに耳を傾ける日が来ることがあるとしても、そのとき、おそらく私 たちは既に存在していないだろう。
人の手になるものが、バッハの音楽を載せ、これから何万年か、もしかすると何億年もの間、恒星間の静け さの中で、それ自身もまたささやかな天体となり、星々の運行を統べる秩序に与る姿を私は想像する。その光景は、バッハの音楽に似つかわしいと思う。私に とってバッハの音楽は、私の貧しい理性をはるかに超えた、宇宙を満たす秩序と測り合うことのできる、特別な音楽なのである。
高校生の時、文化祭の出し物として、友人2人と組んでヴァイオリン、フルート、ピアノで何か演奏しようということになった。バッハの 作品もその候補に挙がっていた。私はその作品を含むバッハの作品集のCDを自宅近くの公立図書館で借りてきて、自宅の再生機のトレイにCDを乗せ、最初に 収録された作品から再生した。
突然、窓がいっぱいに開け放たれたようだった。それまでに知っていた音楽には感じたことがない広々とした威 厳と、理由は分からない「正しさ」のような感覚が私を打った。音楽というものは、私が考えていたよりも、ずっとずっと遠く、高いところへ向けて開かれてい るのを予感した。
その作品は、バッハの管弦楽組曲 第1番 ハ長調の序曲で、カール・リヒター指揮のミュンヘン・バッハ管弦楽団による演奏であった。今思えば、バッハの作品の中で必ずしも飛び抜けた傑作というわけ ではなかったはずではある。また、それまでにもバッハの他の作品に接したことがなかったわけではなく、どうしてあの日、あの序曲について、私が特別な反応 を示したのか、自分では分からない。それでも、あのとき、初夏の西日が差し始めた部屋の空気が、ある秩序の下に置き直されたような感覚を、私は生涯忘れる ことはできないだろう。
バッハは、音楽の父と呼ばれる。それでは音楽の母とは誰になるのか、考えてみれば面白いとは思うけれど、バッハを 父を呼ぶことにためらいは感じない。バッハが受けるその名誉の意味するところはもちろん、音楽における最も創造的な行為である作曲について、バッハが偉大 な模範を示しているということがあるだろう。たとえば、遠山一行氏がいうように、ピアノを習ったことがある人ならば誰もが練習するであろうあの「インヴェ ンション」、あらゆる音楽家はそこから出発したはずである。
しかし、私のように、音楽を手段として自分を表現する能力を持たない者であっ ても、バッハを音楽の父と呼ぶ権利はある。他の作曲家の作品、ことに近代以後のそれを聴くことは、私にとって、その作品を自分がどう受け容れることができ るかという問題であると思う。バッハの作品を聴くとき、時にそれとは正反対の感覚を抱く。作品に、自分が受け容れられると感じるのである。なぜかというこ とを説明することは難しい。しかしその感覚を、自分が生まれる前から世界を構成していた要素であるものへの信頼、と言い換えられるのだとすれば、それは確 かに、父性と呼ぶべきものなのだと思う。
バッハの音楽を特別に思う理由に、バッハの作品から受け取る、秩序の感覚がある。これは、バッハ の作品が、造形として秩序だって作曲されているという意味では、必ずしもない。もちろん、バッハの音楽には、そうした作品構造においても周到な用意がある だろう。しかし私は、耳だけでは当然のこと、楽譜を仔細に眺めたとしても、そのような構造を明らかにする能力があるわけではないし、構造を分析することで 明らかになるそうした秩序と、私が感じる秩序の予感は、また別のものなのである。もしもハノンを端から弾いていったとしたら、それは完全な秩序の下での音 の連なりといえるのかもしれないが、そこに音楽的感動を見出す人は少ないであろう。
私が感じる秩序とは、バッハの手をもってあのような作 品を書かせた何ものかの存在であり、予感のようなものだ。それは、人間の幸福と不幸とを見つめ、感謝と罵りの言葉をすべて引き受けながら、沈黙を続ける何 か、それでいながら、私のような人間にとって、世界が単なる無意味な偶然の堆積であることを否定するための、最後の拠り所となるものなのである。ヘッセは 「シッダールタ」で、ヴァズデーヴァの隣に座ったシッダールタが、川の流れの音に耳を傾け、世界の完成と統一を悟る場面を描いている。私はその場面に深く 感動させられるが、バッハに私が感じる秩序の予感を、シッダールタが川の響きの中に聞いたものに重ねることは、許されるだろうか。
ヘッセもまた、バッハを愛した作家であった。
1977 年にアメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げた無人探査機、ボイジャー1号と2号は、宇宙のどこかに存在する私たち以外の知的生命に対して、私たちの存 在を示すために、人類に関する様々な情報が記録された金属製のレコードを搭載しているという。そこには55の言語でのあいさつ、多くの自然音や、世界各地 の様々な音楽が収録されており、その中には、ベートーヴェンの交響曲 第5番 第1楽章などと共に、バッハの平均律クラヴィーア曲集の第2巻ハ長調のプレリュードとフーガや、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番のガヴォッ トなども収録されている。
ボイジャー1号と2号は現在、ほぼ太陽系を脱し、それぞれ太陽から約170億kmと140億kmの地点を旅して いる。それらはどこかの恒星の方へ定まった進路を有しているわけではないけれど、もしも最も近い恒星系であるケンタウルス座アルファ星に向かったと仮定し た場合でさえ、そこへたどり着くにはあと8万年はかかるという。私たち以外の生命がバッハに耳を傾ける日が来ることがあるとしても、そのとき、おそらく私 たちは既に存在していないだろう。
人の手になるものが、バッハの音楽を載せ、これから何万年か、もしかすると何億年もの間、恒星間の静け さの中で、それ自身もまたささやかな天体となり、星々の運行を統べる秩序に与る姿を私は想像する。その光景は、バッハの音楽に似つかわしいと思う。私に とってバッハの音楽は、私の貧しい理性をはるかに超えた、宇宙を満たす秩序と測り合うことのできる、特別な音楽なのである。