竹西寛子は、ユリイカでバッハが特集されたとき、そこに掲載されていた「バッハ礼讃」という短いエッセイを読んだのがきっかけで好きになった作家である。
こ の本の内容は、著者が好きな詞華を引用しながら自由に書いた比較的短い随筆を編んだもので、昭和63年から平成6年かけて、朝日新聞に連載されたものとい う。古典に通じる著者らしく、取り上げられているのはほとんどが古語で書かれた古典文学で、なかでも短歌と俳諧が多い。
古文など、高校の 授業以来ほとんど読む機会もなかった。私は恥ずかしながら、古文を何かしなびた暗号のようにしか考えていなかった。この本は、そうした私の貧しい認識を まったく改めてくれた。ひとつ例をあげるとすると、たとえば、本の扉を開いてすぐに収められている随筆「涼しさを」で紹介されている蕪村の句がある。
著 者の作品の選び方は、私のような古典の素人にとっては大変ありがたい。ほとんど知識がなくとも、辞書や注釈の助けを借りることなく、原文の魅力の(全部と はいわないまでも)相当な部分を感じ取ることのできる作品が多く選ばれているからだ。そうした選びができるのも、著者の古典に対する教養の広さゆえなので あろう。
そして、私にとってこの本が大切に思える最も大きな理由は、著者が詞華について語るとき、自分の感銘から決して離れていないこと だ。解説や注釈によってその詞華が優れていることを証するのではない。詞華の言葉が自分にどのように働きかけ、それに自分の感情がどのように応えるのか を、澄んだ文章で記している。それを読む私は、古典を読むとはどういうことなのかを知ることができると同時に、竹西寛子という作家自身に出会うことができ る。
たとえば、松尾芭蕉門下の俳人である内藤丈草が、師である芭蕉の死後、その墓にもうでて詠んだ句
また、そうして作品を語るとき、作家としての著者の姿勢も自ずからにじみでてきて、それも興味深い。たとえば、和泉式部の歌の分かり易さについて書かれた箇所に、次のような文もある。
私 は読書が好きだ。でも蔵書は少ない。大抵は借りて済ませてしまって、どうしても手元に置いておきたいものだけ後から買うことにしている。この本は、そうし て手元に置いて、繰り返し読んでいる数少ない蔵書のひとつ。古典文学の手引きとしては、これほど優れたものもなかなかないのではないか。
最後に、文中で引用されている詞華のなかで、特に好きになったものを少しだけ紹介する。
こ の本の内容は、著者が好きな詞華を引用しながら自由に書いた比較的短い随筆を編んだもので、昭和63年から平成6年かけて、朝日新聞に連載されたものとい う。古典に通じる著者らしく、取り上げられているのはほとんどが古語で書かれた古典文学で、なかでも短歌と俳諧が多い。
古文など、高校の 授業以来ほとんど読む機会もなかった。私は恥ずかしながら、古文を何かしなびた暗号のようにしか考えていなかった。この本は、そうした私の貧しい認識を まったく改めてくれた。ひとつ例をあげるとすると、たとえば、本の扉を開いてすぐに収められている随筆「涼しさを」で紹介されている蕪村の句がある。
涼しさや鐘をはなるる鐘の声梵鐘がつかれたときの時間は、不思議に引き伸ばされているように感じる。その感覚が、見えるはずのない音を「はなるる」とすることで、こんなに簡潔な表現の中に納められている。そのたった一語の持つ喚起力の強さに、驚かされた。
著 者の作品の選び方は、私のような古典の素人にとっては大変ありがたい。ほとんど知識がなくとも、辞書や注釈の助けを借りることなく、原文の魅力の(全部と はいわないまでも)相当な部分を感じ取ることのできる作品が多く選ばれているからだ。そうした選びができるのも、著者の古典に対する教養の広さゆえなので あろう。
そして、私にとってこの本が大切に思える最も大きな理由は、著者が詞華について語るとき、自分の感銘から決して離れていないこと だ。解説や注釈によってその詞華が優れていることを証するのではない。詞華の言葉が自分にどのように働きかけ、それに自分の感情がどのように応えるのか を、澄んだ文章で記している。それを読む私は、古典を読むとはどういうことなのかを知ることができると同時に、竹西寛子という作家自身に出会うことができ る。
たとえば、松尾芭蕉門下の俳人である内藤丈草が、師である芭蕉の死後、その墓にもうでて詠んだ句
陽炎や塚より外に住むばかりについて、次のように書いている。
「師 は塚の内に、この身は塚の外にあるだけの違いだという認識は、悲哀をわが身ひとつのものとして他を拒んでいても、又、師弟の絆に、優越感だけでつながって いても生まれはしないだろう。深い喪失感がおのずから客観化されて、すでに死者生者の垣をはらった次元に生きている丈草に私は惹かれる。被爆者である著者は、夏の歌、夏の句に、どうしても自分の悲しみを重ねてしまうのであろう。読み手の固有 の体験をもって作品を語ることは、解説とは違う。しかし、鑑賞とは結局、そうして自分自身を作品に照らし合わせることでしかできないし、そうでなければ意 味がないものだろう。
青蚊帳の 家が爆風で崩れてから四十六年。あの日と同じような酷暑の一日、電車で多摩川の鉄橋を渡った。数日前花火大会でにぎわった河原も人影はまばらで、中州の緑 を抱くようにして川は流れていた。生者にはいつでも逢えるとは限らないけれど、死者にはいつでも逢うことができる。そう思ってみてもやはりかなしい夏であ る。」
また、そうして作品を語るとき、作家としての著者の姿勢も自ずからにじみでてきて、それも興味深い。たとえば、和泉式部の歌の分かり易さについて書かれた箇所に、次のような文もある。
「分かり易さは、作品内容の単純幼稚を意味しない。平明な表現に引け目を感じることはないと思う。恥ずかしいのは、思わせぶり、複雑や高尚、深遠をよそおった曖昧であろう。」その通りだと思う反面、自分を省みて不安にもなった。
私 は読書が好きだ。でも蔵書は少ない。大抵は借りて済ませてしまって、どうしても手元に置いておきたいものだけ後から買うことにしている。この本は、そうし て手元に置いて、繰り返し読んでいる数少ない蔵書のひとつ。古典文学の手引きとしては、これほど優れたものもなかなかないのではないか。
最後に、文中で引用されている詞華のなかで、特に好きになったものを少しだけ紹介する。
月読(つきよみ)の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに(良寛)
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)
真萩散る庭の秋風身にしみて夕日のかげぞ壁に消えゆく(永福門院)