この本については、最近ニュース等でも取り上げられたので、ご存知の方も多いかもしれない。いわゆる「光市母子殺害事件」被告人の元少年(以下ではAとす
る)に著者が面会等の取材を重ね、ルポタージュしたものである。この本は題名も含めて被告人の実名を表記し、本人の写真を掲載する等している。これは、少
年法61条が禁ずる推知報道にあたると思われる。そこで、A側が出版差止めを請求したため、ニュースとなった。先日、10月19日には上記請求の仮処分申
請の第2回審尋が行われたところで、まさに係争中ということになる。
事件自体について書くと、とても長くなってしまう。そこで、以下では飽くまでこの著作について言いたい。
僕 のように、この事件とその裁判に強い関心を持っている者にとっては、この本は貴重な記録だ。Aがどのような人間でなぜこのような犯罪を犯したのか、今どん なことを考えて生きているのか。報道されるのは法廷内での供述、弁護人のコメント、かなり主観的なマスコミの記事ばかりで、僕たちが実際のAの人間像を思 い浮かべるのは困難だ。この本に豊富に引用されているAの肉声に接すると、僕たちはようやく名前も姿も分らない殺人鬼ではなく、成人し、自分の犯した醜悪 な行為に思いを巡らせながら今も拘置所で(上告が棄却され死刑が確定する見込みも大きい)最高裁の判決を待つ「人」を知る思いがする。
ま た、この事件の特徴のひとつに、Aの人格に対し、世論が憎悪ともいえる激しい非難を向けたことがある。原因はいくつもある。たとえば、差戻し控訴審でAと 弁護団が主張するようになった、「弥生さんに甘えたくて抱きついた」「ドラえもんがなんとかしてくれると思って遺体を押入れに入れた」等のいわゆる「新供 述」や、世間を慄然とさせたAが友人へ宛てた「不謹慎な手紙」、<ま、しゃーないですわ今更。被害者さんのことですやろ?知ってま。ありゃーちょうしづい てるとボクもね。思うとりました。>等の表現がある手紙について、世間はそれをAの非人間的な人格と無反省な態度の表れとみなしたのである。そうした出来 事についての認識は、この本を読むとかなり変わってくるだろう。
この本がそうした意義をもつ一方、著者である増田美智子氏のライターとしての姿勢には、大きな不満と反発を感じる。
た とえば、著者は事前連絡もなく面識のないAの父親の住居を訪ね、父親不在のため応対した9歳になるAの異母弟に対し、Aの写真がないか尋ね、結果Aの実弟 の写真を持ってこさせたりしている。しかし、Aの父親はその異母弟にAという異母兄の存在を隠していたのである。事件の性質を考えれば、そのような配慮は 十分にあり得る。その事情を著者が知らなかったとはいえ、著者の行動は場合によっては家庭を破壊してしまうおそれがある、軽率極まりないものである。当 然、父親は激怒し、著者に対する態度は以後非協力的なものとなってしまった。
その取材拒否の様子を著者はなにか武勇伝のように詳細に記載 し、挙句にそうした父親の態度を非難さえしている。しかし、父親からすれば取材拒否は当然であろう。読んでいるこちらまで、著者の不遜な態度には怒りがこ みあげる。そして、どちらがよい、悪いという話ではなく、この軽率な行動によって、著者はAの父親というこの上ない重要な取材源を失ってしまったのであ る。それは直ちに、当著のルポとしての価値を大きく損なう失態かもしれないにもかかわらず、臆面もなくその経緯を書き連ねる著者の態度は、正直いって理解 し難い。
これにとどまらず著者は、Aの「不謹慎な手紙」のきっかけとなった手紙を書いた友人に取材した際、検察から言われてAをおとしめるために手紙を書いたのではないか、との質問を差し向けてその友人を激怒させ、やはり以後取材を続けられなくなっている。
そして結局、致命的な失敗として、Aの実名記載に関する本人の了承の有無で言い分が食い違い、A本人側から出版そのものの差止めを請求される事態を招いてしまった。
人 物への取材を前提とするルポは、相手が話をしてくれなければ成り立たない。その相手との信頼関係を破壊してばかりでは、ジャーナリストとしての資質を疑わ れるのは当然だ。そしてそれは書き手自身の問題にとどまらず、取材源に不信感を与え、将来の取材についても悪影響を及ぼすおそれさえあるだろう。この事件 のように、これからまだ多くの考察を重ねるべき事件において、軽率な取材を重ねて関係者に不信感を植え付けてしまった著者の責任は、相当に重いと思う。
も うひとつの大きな不満は、この本の内容の大部分が取材元の発言のそのままの引用であり、それを踏まえての事件の意味づけや、考察が全くといってよいほどな されていない点にある。著者は、「私は、A(実名)君に生きていてほしいと願っている。量刑の当不当うんぬんということではなく、単純に人情からそう思 う。」(本書217頁)という、素朴な感情論以上のものを何も提示しないで放り出してしまっている。
一方で、取りざたされている実名記載については、法的にはもちろん問題がある。しかし、実名を出すことによって、死刑とは名前も顔も心もあるAという「人間」を殺すことだ、ということに思いを馳せてほしいとの著者の思いには、僕は共感できる。
そ もそも少年事件で実名を報道することが規制されるのは少年の将来性を考えてのことだが、Aのように死刑か無期懲役となることが明らかで、自身が自分の将来 性についての配慮はしてほしくないと明言する場合には、本人の了承があれば実名記載もあり得るのではと、個人的には考える(ただし本件では、その了承が本 当にあったのかどうかがまさに問題点)。
また、Aの実名については過去の週刊新潮の記事やインターネット等ではとうの昔から明らかにされており、 無署名・根拠薄弱な記事が垂れ流しにされていた。それに比較すれば、一応の取材を経て文責を明らかにしているこうした著作が差止められるというのも、理不 尽といえばそうだろう。
実名を公表することでAの家族等、本人以外の関係者に悪影響が及びうるのはもちろん問題だが、少年事件でない刑事事件ならば最初から実名報道されるわけなので、関係者への影響は「少年事件における実名報道」とは別の問題として考えたほうがよい。
ただ、僕はこの本を読んでみて、実名記載の必要とその影響を著者がどこまで真剣に検討して出版に踏み切ったのか、やはり疑問に感じる。
結 局この本は、多く引用されたAの言葉に接することができる点には価値があるが、それ以外の部分では、取材の仕方自体に問題が多く、ルポタージュとしての問 題の掘り下げも浅いと言わざるを得ない。僕自身、この事件について知りたいという欲求が大きかっただけに、非常に残念に思う。
最後に、印象に残ったそのAの言葉をいくつか紹介する。
事件自体について書くと、とても長くなってしまう。そこで、以下では飽くまでこの著作について言いたい。
僕 のように、この事件とその裁判に強い関心を持っている者にとっては、この本は貴重な記録だ。Aがどのような人間でなぜこのような犯罪を犯したのか、今どん なことを考えて生きているのか。報道されるのは法廷内での供述、弁護人のコメント、かなり主観的なマスコミの記事ばかりで、僕たちが実際のAの人間像を思 い浮かべるのは困難だ。この本に豊富に引用されているAの肉声に接すると、僕たちはようやく名前も姿も分らない殺人鬼ではなく、成人し、自分の犯した醜悪 な行為に思いを巡らせながら今も拘置所で(上告が棄却され死刑が確定する見込みも大きい)最高裁の判決を待つ「人」を知る思いがする。
ま た、この事件の特徴のひとつに、Aの人格に対し、世論が憎悪ともいえる激しい非難を向けたことがある。原因はいくつもある。たとえば、差戻し控訴審でAと 弁護団が主張するようになった、「弥生さんに甘えたくて抱きついた」「ドラえもんがなんとかしてくれると思って遺体を押入れに入れた」等のいわゆる「新供 述」や、世間を慄然とさせたAが友人へ宛てた「不謹慎な手紙」、<ま、しゃーないですわ今更。被害者さんのことですやろ?知ってま。ありゃーちょうしづい てるとボクもね。思うとりました。>等の表現がある手紙について、世間はそれをAの非人間的な人格と無反省な態度の表れとみなしたのである。そうした出来 事についての認識は、この本を読むとかなり変わってくるだろう。
この本がそうした意義をもつ一方、著者である増田美智子氏のライターとしての姿勢には、大きな不満と反発を感じる。
た とえば、著者は事前連絡もなく面識のないAの父親の住居を訪ね、父親不在のため応対した9歳になるAの異母弟に対し、Aの写真がないか尋ね、結果Aの実弟 の写真を持ってこさせたりしている。しかし、Aの父親はその異母弟にAという異母兄の存在を隠していたのである。事件の性質を考えれば、そのような配慮は 十分にあり得る。その事情を著者が知らなかったとはいえ、著者の行動は場合によっては家庭を破壊してしまうおそれがある、軽率極まりないものである。当 然、父親は激怒し、著者に対する態度は以後非協力的なものとなってしまった。
その取材拒否の様子を著者はなにか武勇伝のように詳細に記載 し、挙句にそうした父親の態度を非難さえしている。しかし、父親からすれば取材拒否は当然であろう。読んでいるこちらまで、著者の不遜な態度には怒りがこ みあげる。そして、どちらがよい、悪いという話ではなく、この軽率な行動によって、著者はAの父親というこの上ない重要な取材源を失ってしまったのであ る。それは直ちに、当著のルポとしての価値を大きく損なう失態かもしれないにもかかわらず、臆面もなくその経緯を書き連ねる著者の態度は、正直いって理解 し難い。
これにとどまらず著者は、Aの「不謹慎な手紙」のきっかけとなった手紙を書いた友人に取材した際、検察から言われてAをおとしめるために手紙を書いたのではないか、との質問を差し向けてその友人を激怒させ、やはり以後取材を続けられなくなっている。
そして結局、致命的な失敗として、Aの実名記載に関する本人の了承の有無で言い分が食い違い、A本人側から出版そのものの差止めを請求される事態を招いてしまった。
人 物への取材を前提とするルポは、相手が話をしてくれなければ成り立たない。その相手との信頼関係を破壊してばかりでは、ジャーナリストとしての資質を疑わ れるのは当然だ。そしてそれは書き手自身の問題にとどまらず、取材源に不信感を与え、将来の取材についても悪影響を及ぼすおそれさえあるだろう。この事件 のように、これからまだ多くの考察を重ねるべき事件において、軽率な取材を重ねて関係者に不信感を植え付けてしまった著者の責任は、相当に重いと思う。
も うひとつの大きな不満は、この本の内容の大部分が取材元の発言のそのままの引用であり、それを踏まえての事件の意味づけや、考察が全くといってよいほどな されていない点にある。著者は、「私は、A(実名)君に生きていてほしいと願っている。量刑の当不当うんぬんということではなく、単純に人情からそう思 う。」(本書217頁)という、素朴な感情論以上のものを何も提示しないで放り出してしまっている。
一方で、取りざたされている実名記載については、法的にはもちろん問題がある。しかし、実名を出すことによって、死刑とは名前も顔も心もあるAという「人間」を殺すことだ、ということに思いを馳せてほしいとの著者の思いには、僕は共感できる。
そ もそも少年事件で実名を報道することが規制されるのは少年の将来性を考えてのことだが、Aのように死刑か無期懲役となることが明らかで、自身が自分の将来 性についての配慮はしてほしくないと明言する場合には、本人の了承があれば実名記載もあり得るのではと、個人的には考える(ただし本件では、その了承が本 当にあったのかどうかがまさに問題点)。
また、Aの実名については過去の週刊新潮の記事やインターネット等ではとうの昔から明らかにされており、 無署名・根拠薄弱な記事が垂れ流しにされていた。それに比較すれば、一応の取材を経て文責を明らかにしているこうした著作が差止められるというのも、理不 尽といえばそうだろう。
実名を公表することでAの家族等、本人以外の関係者に悪影響が及びうるのはもちろん問題だが、少年事件でない刑事事件ならば最初から実名報道されるわけなので、関係者への影響は「少年事件における実名報道」とは別の問題として考えたほうがよい。
ただ、僕はこの本を読んでみて、実名記載の必要とその影響を著者がどこまで真剣に検討して出版に踏み切ったのか、やはり疑問に感じる。
結 局この本は、多く引用されたAの言葉に接することができる点には価値があるが、それ以外の部分では、取材の仕方自体に問題が多く、ルポタージュとしての問 題の掘り下げも浅いと言わざるを得ない。僕自身、この事件について知りたいという欲求が大きかっただけに、非常に残念に思う。
最後に、印象に残ったそのAの言葉をいくつか紹介する。
-ちょっと、聞きにくいことなんだけど、死刑になったらどうするとか、考える?
「死刑になったら・・・。僕は2人の命を奪っていて、その対価として、というとおこがましいかもしれないけど、僕が死ぬ。ただ、僕が死んでも誰も救われないかもしれない。そうすると、僕ってなんなんだろう、という気持ちはあります。」
「死刑廃止を言う人はそれなりにいるとは思うけど、僕は死刑廃止を願っていないんだよ。死刑には意味があると思う。それによって犯罪を抑えることもできるかもしれない。僕の場合はそうじゃなかったんだけど」
「弁護士が死刑を避けるためにがんばってくれて、だから僕は(死刑回避を願っていると)よく誤解されるけど、これは、門田(隆将)(※)さんにも言ったけど、裁判で認定された犯行事実が違うから上告してて、僕が死刑になること自体は当然だと思う」
※)「なぜ君は絶望と闘えたのか」(新潮社、2008年)の著者。
「あ と、拘置所のなかで、よくしてくれる刑務官の先生もいるんだよ。それによって僕はここまで来られた面もあって、そういう先生がいなかったら僕はダメだった と思う。そんな親しくなった先生たちに(死刑を)執行させるというのは、先生たちの負担を考えるとよくないと思う。だから、僕はここ(広島拘置所)じゃな くて、大阪か福岡で執行されたいと思う」
「僕が、今の弁護方針に不満があるとすれば、弁護団が僕の将来の可能性について言うところなんだ よね。だって、僕は弥生さんと夕夏ちゃんの将来の可能性を奪ってしまった。そういう僕についての可能性を唱えちゃいけないと思うんだよ。検察側の主張は事 実とは違うけど、僕が2人の人を殺めてしまったことには変わりないわけで、だから、僕の可能性とか、僕は言いたくないんだよ。」
「弁護 士って、どうしてもさ、判例とかを気にしちゃうじゃん。ほかの判決と比べて重いとか軽いとか。僕は、そういうことじゃないと思う。僕のやってしまったこと を見るべきだと思う。それを、ほかの犯罪と比べてとか、比べて比べて、いろいろ比べて、僕がやってることをぼかしてしまっているように思う」