2006年の夏休み、これだけは観ておきたいと、映画「誰も知らない」をレンタルで借りて観た。監督は、日本人の中で僕が知っている中では一番好きな監督
のひとり、是枝裕和である。邦画ファンの間ではその監督作品「幻の光」や「ワンダフルライフ」等が既に高く評価されていたが、「誰も知らない」は出演した
柳楽優弥がカンヌ映画祭で主演男優賞を受賞したこともあり、例外的に大作級の注目を集めることとなった。
映画は「西巣鴨子供四人置去り事件」という、1988年に実際に起きた事件を題材に作られている。ただ、映画は事件を素材としながらも、飽くまで監督自身の創作したフィクションとのこと。
複 数の男性との間にできた子供4人(長男、長女、弟、妹)をかかえる母親が、ある日自分の新しい恋人と暮らすために、子供たちを置いて出て行ってしまう。時 折母親から思い出したように送られてくるわずかな生活費だけを頼りに、マンションの一室で、学校すら行ったことのない4人の子供だけで暮らし始める、とい うあらすじ。
カンヌでの受賞が主演男優賞であったことからもうかがえるように、この映画に対する多くの賛辞は、とても演技とは思えない子 供たちの仕草や表情と、それを引き出した監督の演出に関して捧げられることが多いように思う。だからその点については他に譲り、僕は少し別のことを中心に 書いてみたい。
子供たちは上に書いたような状況のなか、懸命に生活するが、どうしたって子供の力では限界がある。ろくに自炊もできず、生活費も底をつく。そうであれば、結末が明るいものであるはずもない。
母 親が子供たちを捨てたことが明白になる頃、映画では、一番下の妹がある事故で死んでしまう。しかし、実際の事件での妹の死の原因は、部屋に入り浸るように なった外部の少年2人の遊び半分の暴力だった。いなくなった母親の代わりに、長男が下の兄弟の世話をしていたのだが、彼は結局、自分の家族をそうした荒廃 から守ることができなかった。通報によって子供たちの存在が明らかになったとき、その事件の悲惨さゆえに、報道は過熱したそうである。
是枝監督は、そんな当時の報道の中で、ある新聞記事に掲載された弟の証言、「お兄ちゃんは優しかった」という言葉がずっと頭に残り、映画化を考え続けていたという。
そのとき是枝監督をとらえた感覚が、この映画の全てといってもよいのではないか。
外 側からいくらコメントしても、それだけでは何も分からない。彼らの生活した場所へ入り、そこに立ったとき、はじめて見ることのできる彼らなりの喜びや幸福 もあったのではないか、そうした是枝監督の気持ちが染み込むように伝わってくる作品。淡々と子供たちの様子を撮っただけに思える映像が、こんなにはっきり と、対象への監督自身の想いや愛情を伝えうるということに、驚かされる。悲惨な事件の中での、「お兄ちゃんは優しかった」という言葉に衝撃を受け、それを 自分の中に長くとどめておいた是枝監督は、とても繊細で優しい人なのだと思う。
だから、子供たちが置かれた客観的状況の悲惨さにもかかわ らず、この映画は不思議に明るい。子供たちは絶望などしないし、生き生きとした表情で、4人だけの閉じた世界で起こる些細な出来事を、時にはイベントとし て楽しんだりさえするのである。彼らを見ていると、家族を愛すること、その中に幸福を感じるということは、人間に生まれたときから誰でもが備えた能力であ ると思え、見ている大人たちは励まされることすらあるかもしれない。大人は、なぜだかそれができなくなってしまうことが多いから。
この映 画には、悪い人間が登場しない。子供を捨てた母親も、責任を取らない父親も、みなそれなりに優しく親切で、社会的には弱者である。悪役はいないが、でも結 果はこれほどに悲惨だ。この映画は確かにそれを示すけれども、是枝監督の語り方は、いまだどんなプロパガンダとも無縁である。
この作品に 限らず是枝監督は、映画の中の人物に役割に従った行動をさせることを、慎重に避けているように見える。是枝監督はいつだったか、「ドキュメンタリーとは、 複雑な現実を複雑なまま見せることだ」という発言をしていた。映画監督は往々にして、役割からその人物の行動を決めてしまう。僕の好きな宮崎駿監督でさ え、残念ながらそうだ。悪者は悪者だし、ヒロインはヒロイン。でも現実の中では、役割や理念から演繹される通り常に行動する人間なんて、まず存在しないだ ろう。悪役らしく行動しようと思って生きる人間なんて、ほとんどいないということである。
ただ、監督の、彼らが不幸なだけではなかったの では、という問いかけには共感するとしても、映画として、これでよかったのかという気持ちもある。監督が付け加えた、実際の事件とは異なっている最も重要 な創作部分は、自分に対する学校でのいじめに絶望する紗希という中学生を登場させたことだろう。彼女は子供たちに寄り添った、ただ一人の人であり、小さな 母親役を担った、子供たちにとっての唯一の希望として描かれている。彼女が現れてから、壊れて鳴らなかったはずのおもちゃのピアノがいつの間にか音を取り 戻すのは、その象徴に思える。
でも結局、紗希はずっと傍観者であり、その一線を踏み越えることはなかった。ひとときを子供たちと過ごして は、自宅である高級マンションへ帰って行く。彼らのことを、誰に相談するわけでもない。子供たちにとって唯一の信頼できる「外」であった紗希は、実は外に 通じてはいないのである。是枝監督はどうして、紗希という創作をあえて子供たちの閉じた世界の一部として付け加えたのだろう。「救い」というフィクション を加えるのなら、子供たちと僕たちの社会との関わりの中での、より現実的な救済の可能性を描くことはできなかったのだろうか。
それでも、現実の社会の中で、子供たちは「誰も知らない」まま放置されたのがまぎれもない事実なのだから、安易な救済を創作することは、監督にはできなかったのかもしれない。
演 技者に台本を渡さず、カメラも手持ちといった是枝監督独自の手法は、「ワンダフルライフ」から始まり、「ディスタンス」を経て、この作品で既に早くも完成 してしまったと言えるのではないか。しかも、これ以上はなかなか想像できないくらい、高い地点で。同様の手法によるならば、「誰も知らない」は、監督に とっても容易に越え難い壁になってしまうのではないかと、心配になってしまうほどである。
でも間違いなく、歴史に残る作品だろう。
映画では、結末近く、死んだ妹の遺体をスーツケースに入れ、長男と紗希が電車に乗って空港へそれを持って行くシーンがある。妹に「飛行機を見せてあげたい」と。そして、飛行場近くの空き地を見つけ、手で穴を掘ってスーツケースへ土をかける。
僕 は、これは映画の創作部分だと思っていた。でも実際に、長男は妹の亡骸を秩父の山へ運んだということである。西巣鴨と秩父は、近くはない。「山を見せてあ げたかった」のだという。映画にも描かれていた通り、浮浪児のような彼の格好は、相当に周囲の目を引いたはず。そんな少年が大きなスーツケースを持って山 岳方面の電車に乗っている姿は、異様であったに違いない。
どんな気持ちだったろう。
小学校すら通ったことのない少年が執り行ったその弔いのあり方に、幼さと、計り難い愛惜の思いを感じ、胸を突かれた。
映画は「西巣鴨子供四人置去り事件」という、1988年に実際に起きた事件を題材に作られている。ただ、映画は事件を素材としながらも、飽くまで監督自身の創作したフィクションとのこと。
複 数の男性との間にできた子供4人(長男、長女、弟、妹)をかかえる母親が、ある日自分の新しい恋人と暮らすために、子供たちを置いて出て行ってしまう。時 折母親から思い出したように送られてくるわずかな生活費だけを頼りに、マンションの一室で、学校すら行ったことのない4人の子供だけで暮らし始める、とい うあらすじ。
カンヌでの受賞が主演男優賞であったことからもうかがえるように、この映画に対する多くの賛辞は、とても演技とは思えない子 供たちの仕草や表情と、それを引き出した監督の演出に関して捧げられることが多いように思う。だからその点については他に譲り、僕は少し別のことを中心に 書いてみたい。
子供たちは上に書いたような状況のなか、懸命に生活するが、どうしたって子供の力では限界がある。ろくに自炊もできず、生活費も底をつく。そうであれば、結末が明るいものであるはずもない。
母 親が子供たちを捨てたことが明白になる頃、映画では、一番下の妹がある事故で死んでしまう。しかし、実際の事件での妹の死の原因は、部屋に入り浸るように なった外部の少年2人の遊び半分の暴力だった。いなくなった母親の代わりに、長男が下の兄弟の世話をしていたのだが、彼は結局、自分の家族をそうした荒廃 から守ることができなかった。通報によって子供たちの存在が明らかになったとき、その事件の悲惨さゆえに、報道は過熱したそうである。
是枝監督は、そんな当時の報道の中で、ある新聞記事に掲載された弟の証言、「お兄ちゃんは優しかった」という言葉がずっと頭に残り、映画化を考え続けていたという。
そのとき是枝監督をとらえた感覚が、この映画の全てといってもよいのではないか。
外 側からいくらコメントしても、それだけでは何も分からない。彼らの生活した場所へ入り、そこに立ったとき、はじめて見ることのできる彼らなりの喜びや幸福 もあったのではないか、そうした是枝監督の気持ちが染み込むように伝わってくる作品。淡々と子供たちの様子を撮っただけに思える映像が、こんなにはっきり と、対象への監督自身の想いや愛情を伝えうるということに、驚かされる。悲惨な事件の中での、「お兄ちゃんは優しかった」という言葉に衝撃を受け、それを 自分の中に長くとどめておいた是枝監督は、とても繊細で優しい人なのだと思う。
だから、子供たちが置かれた客観的状況の悲惨さにもかかわ らず、この映画は不思議に明るい。子供たちは絶望などしないし、生き生きとした表情で、4人だけの閉じた世界で起こる些細な出来事を、時にはイベントとし て楽しんだりさえするのである。彼らを見ていると、家族を愛すること、その中に幸福を感じるということは、人間に生まれたときから誰でもが備えた能力であ ると思え、見ている大人たちは励まされることすらあるかもしれない。大人は、なぜだかそれができなくなってしまうことが多いから。
この映 画には、悪い人間が登場しない。子供を捨てた母親も、責任を取らない父親も、みなそれなりに優しく親切で、社会的には弱者である。悪役はいないが、でも結 果はこれほどに悲惨だ。この映画は確かにそれを示すけれども、是枝監督の語り方は、いまだどんなプロパガンダとも無縁である。
この作品に 限らず是枝監督は、映画の中の人物に役割に従った行動をさせることを、慎重に避けているように見える。是枝監督はいつだったか、「ドキュメンタリーとは、 複雑な現実を複雑なまま見せることだ」という発言をしていた。映画監督は往々にして、役割からその人物の行動を決めてしまう。僕の好きな宮崎駿監督でさ え、残念ながらそうだ。悪者は悪者だし、ヒロインはヒロイン。でも現実の中では、役割や理念から演繹される通り常に行動する人間なんて、まず存在しないだ ろう。悪役らしく行動しようと思って生きる人間なんて、ほとんどいないということである。
ただ、監督の、彼らが不幸なだけではなかったの では、という問いかけには共感するとしても、映画として、これでよかったのかという気持ちもある。監督が付け加えた、実際の事件とは異なっている最も重要 な創作部分は、自分に対する学校でのいじめに絶望する紗希という中学生を登場させたことだろう。彼女は子供たちに寄り添った、ただ一人の人であり、小さな 母親役を担った、子供たちにとっての唯一の希望として描かれている。彼女が現れてから、壊れて鳴らなかったはずのおもちゃのピアノがいつの間にか音を取り 戻すのは、その象徴に思える。
でも結局、紗希はずっと傍観者であり、その一線を踏み越えることはなかった。ひとときを子供たちと過ごして は、自宅である高級マンションへ帰って行く。彼らのことを、誰に相談するわけでもない。子供たちにとって唯一の信頼できる「外」であった紗希は、実は外に 通じてはいないのである。是枝監督はどうして、紗希という創作をあえて子供たちの閉じた世界の一部として付け加えたのだろう。「救い」というフィクション を加えるのなら、子供たちと僕たちの社会との関わりの中での、より現実的な救済の可能性を描くことはできなかったのだろうか。
それでも、現実の社会の中で、子供たちは「誰も知らない」まま放置されたのがまぎれもない事実なのだから、安易な救済を創作することは、監督にはできなかったのかもしれない。
演 技者に台本を渡さず、カメラも手持ちといった是枝監督独自の手法は、「ワンダフルライフ」から始まり、「ディスタンス」を経て、この作品で既に早くも完成 してしまったと言えるのではないか。しかも、これ以上はなかなか想像できないくらい、高い地点で。同様の手法によるならば、「誰も知らない」は、監督に とっても容易に越え難い壁になってしまうのではないかと、心配になってしまうほどである。
でも間違いなく、歴史に残る作品だろう。
映画では、結末近く、死んだ妹の遺体をスーツケースに入れ、長男と紗希が電車に乗って空港へそれを持って行くシーンがある。妹に「飛行機を見せてあげたい」と。そして、飛行場近くの空き地を見つけ、手で穴を掘ってスーツケースへ土をかける。
僕 は、これは映画の創作部分だと思っていた。でも実際に、長男は妹の亡骸を秩父の山へ運んだということである。西巣鴨と秩父は、近くはない。「山を見せてあ げたかった」のだという。映画にも描かれていた通り、浮浪児のような彼の格好は、相当に周囲の目を引いたはず。そんな少年が大きなスーツケースを持って山 岳方面の電車に乗っている姿は、異様であったに違いない。
どんな気持ちだったろう。
小学校すら通ったことのない少年が執り行ったその弔いのあり方に、幼さと、計り難い愛惜の思いを感じ、胸を突かれた。