僕の奥さんはピアノを弾く。出張ピアノ講師をしたり、時々近くのライヴハウスに出たりもしている。夜、彼女は電子ピアノで練習する。僕の勉強机も同じ部屋 に置いてあるので、よくそこで、彼女はピアノを弾き、僕は勉強する。ヘッドフォンをしての練習だが、静かにしていると僕もヘッドフォンから洩れてくる音 で、何をどんなふうに弾いているのかがおよそは分かる。

少し前、彼女はライヴで弾くためにシベリウスの「樅(もみ)の木」という小品を練 習していた。僕はシベリウスの音楽がとても好きだが、それは主に交響曲や管弦楽作品であって、「樅の木」や、同様のピアノ小品があるのは知っていても、積 極的にそれらを聴くことはそれまでほとんどなかった。

シベリウスは生涯に7曲の番号が付いた交響曲を書いたが、およそ第3番以降、作風は 次第に内省的になっていった。用いる管弦楽の編成は小さくなり、管弦楽法は細やかで室内楽的になった。動機は簡素でさりげないものになり、巧妙に変形され て全体を統一する。その傾向は突き詰められ、ついに最後の第7番では、楽章は溶け合って単一楽章となり、主題は単純なハ長調の音階にまで還元されてしま う。

その第7番を発表した数年後から、シベリウスの作品を発表する機会は極端に少なくなり、創作活動はほとんど途絶えたまま、亡くなるま での約30年間を過ごした。「創作力の枯渇」や、「著名になったことによる生活の安定」が理由として言われることもあるが、その本当の理由は、よく分かっ ていない。

「樅の木」は、とてもロマンチックな旋律を持つ愛らしい小品である。その感傷的な雰囲気は、ほとんど通俗すれすれと言ってよい ほど。作曲家が、新しい表現やその手段を開拓しようという意図を持って書いたという性格のものではない。でも実は、シベリウスはこうしたピアノ小品を約 100曲も書いている。作品数で言えば、これはシベリウスの全作品の4分の1にもあたるという。
交響曲作家としてのシベリウスは強すぎる自己批判 に悩まされ、それをくぐり抜けて世に出た後期の交響曲は、どれも鉱物の結晶を思わせるような完璧さをそなえた作品。だから、セシル・グレイが「一つの無駄 な音符もない」と評したという交響曲第4番の少し後に書かれた、この「樅の木」のあまりに率直な感傷、構えの無さには、意外な感じを受けてしまう。

そ の多くは生活のためとはいえ、こうした性格の作品を書いては落として行ったシベリウスにとって、あのような交響曲を書き続けるということは、もしかすると 想像以上に苦しい作業だったのではないか。シベリウスは世界中から寄せられる8番目の交響曲への期待に対して、「作曲は順調に進んでいます」と言い続けた という。ヘッドフォンから洩れてくる彼女の「樅の木」の音を聴くと、シベリウス晩年の空白の意味が、少し分かるような気がする。