僕はこの数年、この小説ほど、読んでいて幸せな気持ちに浸ることができた物語はなかったように思う。素晴らしい小説は世の中に数え切れないほどあるし、幸運にも、その中の幾つかを手に取る機会に恵まれることは、決して少なくはない。それでも、読んでいる間、読み終えたくないと思えるような小説に出会うことは、やはり多くはない。ブルックナーの交響曲のアダージョのように、いつまでもいつまでも、その響きの中に身を浸していたいと思う。しおりを挟むごとに残りのページが少なくなってゆくのを、寂しく感じた。「博士の愛した数式」は、そういう小説だった。
物語は、過去の事故の影響で、1975年以後の記憶は、わずかに80分間しか保つことのできない老数学者「博士」と、そこへ派遣されることになった家政婦である「私」、そしてその息子「ルート」の関係を描いている。「ルート」は、息子の頭のてっぺんがルート記号(√)のように平らであることから、博士が命名したあだ名だ。数学以外の事柄には極度に関心の薄い博士と二人は、博士が数について語ることを介して、次第に不思議な絆を築いてゆく。そう大きな事件があるわけではない。ルートがちょっとした怪我をしたり、博士を野球の観戦に引っ張っていったり、ルートの誕生日を祝ったりする。そして、お別れの時もまた、やってくる。
この小説で僕が最も魅力的を感じるのは、その幸福の描かれ方だ。博士は食堂の安楽椅子で数学の問題にふけり、ルートがその横で野球のラジオを聴き、私が夕食の用意をしている。全てがあるべきところにあり、静かな調和に満ちたその光景の暖かさと平穏さが、読み手にも伝わってくる。僕たちは、博士はその障害のために、毎朝、昨日の自分の死刑を宣告されるという深い不幸に独りたえていることを知っているので、その光景がより尊いものに思える。
博士は、数学的真実と全く同じように、子どもを心から愛している。その愛情は、あらん限り、最上の善意を子どもに手渡すべきだという、信念に支えられている。二乗して負になる数、幅がなく、どこまでも伸びてゆかなければならない直線、「それはここにしかない」と胸に手を当てた博士の姿を思い浮かべる。どこまでも謙虚で、どこまでも純粋な愛情は、現実の中で居場所を失い、僕たちはそれを目にすることなどできないのだと、諦めてしまう。この物語がこんなにも人の心を打つのは、そのような純粋な愛情を、博士が「ここにある」と示してくれるからではないだろうか。博士が大人たちのいざこざからルートを救おうと書き付けた、オイラーの公式と同じように。それは簡潔で、慎ましく、力強く、美しいと思う。
「この世で博士が最も愛したのは、素数だった。素数というものが存在するのは私も一応知っていたが、それが愛する対象になるとは考えた試しもなかった。しかしいくら対象が突飛でも、彼の愛し方は正統的だった。相手を慈しみ、無償で尽くし、敬いの心を忘れず、時に愛撫し、時にひざまずきながら、常にそのそばから離れようとはしなかった。」 (本文より)
物語は、過去の事故の影響で、1975年以後の記憶は、わずかに80分間しか保つことのできない老数学者「博士」と、そこへ派遣されることになった家政婦である「私」、そしてその息子「ルート」の関係を描いている。「ルート」は、息子の頭のてっぺんがルート記号(√)のように平らであることから、博士が命名したあだ名だ。数学以外の事柄には極度に関心の薄い博士と二人は、博士が数について語ることを介して、次第に不思議な絆を築いてゆく。そう大きな事件があるわけではない。ルートがちょっとした怪我をしたり、博士を野球の観戦に引っ張っていったり、ルートの誕生日を祝ったりする。そして、お別れの時もまた、やってくる。
この小説で僕が最も魅力的を感じるのは、その幸福の描かれ方だ。博士は食堂の安楽椅子で数学の問題にふけり、ルートがその横で野球のラジオを聴き、私が夕食の用意をしている。全てがあるべきところにあり、静かな調和に満ちたその光景の暖かさと平穏さが、読み手にも伝わってくる。僕たちは、博士はその障害のために、毎朝、昨日の自分の死刑を宣告されるという深い不幸に独りたえていることを知っているので、その光景がより尊いものに思える。
博士は、数学的真実と全く同じように、子どもを心から愛している。その愛情は、あらん限り、最上の善意を子どもに手渡すべきだという、信念に支えられている。二乗して負になる数、幅がなく、どこまでも伸びてゆかなければならない直線、「それはここにしかない」と胸に手を当てた博士の姿を思い浮かべる。どこまでも謙虚で、どこまでも純粋な愛情は、現実の中で居場所を失い、僕たちはそれを目にすることなどできないのだと、諦めてしまう。この物語がこんなにも人の心を打つのは、そのような純粋な愛情を、博士が「ここにある」と示してくれるからではないだろうか。博士が大人たちのいざこざからルートを救おうと書き付けた、オイラーの公式と同じように。それは簡潔で、慎ましく、力強く、美しいと思う。
「この世で博士が最も愛したのは、素数だった。素数というものが存在するのは私も一応知っていたが、それが愛する対象になるとは考えた試しもなかった。しかしいくら対象が突飛でも、彼の愛し方は正統的だった。相手を慈しみ、無償で尽くし、敬いの心を忘れず、時に愛撫し、時にひざまずきながら、常にそのそばから離れようとはしなかった。」 (本文より)