楽譜上に、ある1音が、ひとつだけ書き記されている。そこへ現実的に組み合わせ可能なあらゆる高さ、長さの音を、ある手順に従って加えてゆく(そこへ強度
などの他の要素を加えることもできるが、原理としては変わらない)。それは、おびただしい数の音の組み合わせを生むだろう。そして、その無数の組み合わせ
の中には、原理的に、記譜可能なあらゆる音楽作品が含まれるはずだ。無論、計算に要する時間は途方もないものになるとしても。
それは、つ まりこういうことになるだろう。素晴らしい計算能力を持ったコンピュータとプリンタによって、あるルールに従って自動的に作成された楽譜が、来る日も来る 日も出力され続ける。すると、ある日ふと打ち出された楽譜は、ベートーヴェンの最も霊感に満ちたピアノ・ソナタのそれかもしれないということだ。
こ の思考実験で最も神秘的な部分は、そうして出力される楽譜の中には、「書かれるはずだった」作品の、最終的な姿さえも含まれている点だ。自らの名にちなん だ動機を導入したところで途絶えてしまったバッハの未完のフーガ。膨大なスケッチだけが残されたブルックナーの9番の交響曲のフィナーレ。作曲者の頭の中 でのみ鳴り響いて虚空に消えたはずのそれらの作品が、完成された姿で楽譜として出力される。想像されるその光景は、幻想的とさえ言える。しかしこれは、原 理的には保証された事実だ。
ただ、残念ながら、僕たちがその光景に立ち会える可能性は、限りなく低いだろう。考えてもみよう。あるオク ターブのドの音から、高さの違う上下1オクターヴ以内の音へ移るには、24通りの可能性がある。それを7回繰り返せば、組み合わせの数は24の7 乗=4,586,471,424 通り。つまり、「ある1音から次の音へ移る時には、高さの違う上下1オクターヴ以内の音へしか移れない」というルールの下でさえ、ドから始まる任意の8音 の旋律が「ドレミファソラシド」というハ長調の音階となる確率は、約46億分の1というものなのだ。ここにさらにリズム、和声といった要素を加えてゆけ ば、音符の組み合わせはすぐに途方もない数になることは直感的に明らかだろう。機械が「音楽作品」と呼びうる楽譜を出力することは、限りなく稀なのだ。
そ れでも、原理的には、音楽作品を自動的に生み出す先述の手順自体は、相変わらず可能である。問題は、それが素晴らしい作品であるか、雑音にしかならない楽 譜なのかを、自動的に判断する手順というものが存在しないことなのだ。言い換えれば、出力される作品が素晴らしいかどうかは、結局は人間が楽譜を読んでみ るまで分からない。手順に従って出力される楽譜すべてを実際に鑑賞してみることは、「ドレミファソラシド」の例から考えても、人間の能力の範囲を超えてい ると言わざるを得ない。しかし作曲家は、この果てしもない音の組み合わせの中から、どういった感覚によってか、ある「素晴らしい」音の配列を、実際に探り 当ててきた。それこそが神秘であり、驚嘆すべき事実と言うべきだろう。
この思考実験は、突き詰めれば、おそらく人間がこれまで書いたこと もない、未来にも書かれることもない、至高の音楽作品さえも、ある決められた手順によって生み出すことができるとするものだ。もちろんこんな議論自体に は、何の生産性も発展性もない。しかし、誰もいない部屋で出力を続ける機械から、ひらりと、奇跡のような音楽作品が生まれ、また誰にも知られずに雑音にし かならない楽譜に埋もれていく光景は、とても幻想的で、なかなか魅力的だと思う。
それは、つ まりこういうことになるだろう。素晴らしい計算能力を持ったコンピュータとプリンタによって、あるルールに従って自動的に作成された楽譜が、来る日も来る 日も出力され続ける。すると、ある日ふと打ち出された楽譜は、ベートーヴェンの最も霊感に満ちたピアノ・ソナタのそれかもしれないということだ。
こ の思考実験で最も神秘的な部分は、そうして出力される楽譜の中には、「書かれるはずだった」作品の、最終的な姿さえも含まれている点だ。自らの名にちなん だ動機を導入したところで途絶えてしまったバッハの未完のフーガ。膨大なスケッチだけが残されたブルックナーの9番の交響曲のフィナーレ。作曲者の頭の中 でのみ鳴り響いて虚空に消えたはずのそれらの作品が、完成された姿で楽譜として出力される。想像されるその光景は、幻想的とさえ言える。しかしこれは、原 理的には保証された事実だ。
ただ、残念ながら、僕たちがその光景に立ち会える可能性は、限りなく低いだろう。考えてもみよう。あるオク ターブのドの音から、高さの違う上下1オクターヴ以内の音へ移るには、24通りの可能性がある。それを7回繰り返せば、組み合わせの数は24の7 乗=4,586,471,424 通り。つまり、「ある1音から次の音へ移る時には、高さの違う上下1オクターヴ以内の音へしか移れない」というルールの下でさえ、ドから始まる任意の8音 の旋律が「ドレミファソラシド」というハ長調の音階となる確率は、約46億分の1というものなのだ。ここにさらにリズム、和声といった要素を加えてゆけ ば、音符の組み合わせはすぐに途方もない数になることは直感的に明らかだろう。機械が「音楽作品」と呼びうる楽譜を出力することは、限りなく稀なのだ。
そ れでも、原理的には、音楽作品を自動的に生み出す先述の手順自体は、相変わらず可能である。問題は、それが素晴らしい作品であるか、雑音にしかならない楽 譜なのかを、自動的に判断する手順というものが存在しないことなのだ。言い換えれば、出力される作品が素晴らしいかどうかは、結局は人間が楽譜を読んでみ るまで分からない。手順に従って出力される楽譜すべてを実際に鑑賞してみることは、「ドレミファソラシド」の例から考えても、人間の能力の範囲を超えてい ると言わざるを得ない。しかし作曲家は、この果てしもない音の組み合わせの中から、どういった感覚によってか、ある「素晴らしい」音の配列を、実際に探り 当ててきた。それこそが神秘であり、驚嘆すべき事実と言うべきだろう。
この思考実験は、突き詰めれば、おそらく人間がこれまで書いたこと もない、未来にも書かれることもない、至高の音楽作品さえも、ある決められた手順によって生み出すことができるとするものだ。もちろんこんな議論自体に は、何の生産性も発展性もない。しかし、誰もいない部屋で出力を続ける機械から、ひらりと、奇跡のような音楽作品が生まれ、また誰にも知られずに雑音にし かならない楽譜に埋もれていく光景は、とても幻想的で、なかなか魅力的だと思う。