僕は、この作品で初めて村上春樹を読んだ。それまで僕は、この作家の名声は、巷にあふれかえる「現代的な」若者の心情をすくい上げることによって築かれた
に違いないという、根拠のない先入観と小さな反抗心を持っていた。しかし、この「ノルウェイの森」のみを考えるなら、その主題は必ずしも「現代的な」若者
に関するものではないだろう。この小説の背景が、大学紛争であっても、フランス革命であっても、語られる物語にはほとんど関係しないに違いない。ここでの
主題はもっと一般的な、自ら時間を進めることを放棄した死者と、否応なく時間から背中を押され続ける生者との、様々な関わり方という問題である。
この物語では、死者との結びつき方において、直子と緑という、互いにネガとポジのような性質をもつ二人の女性が両端に置かれ、「僕」はその間を往復する。
緑は、他人の死を、自分が身を置く時間の流れの中に完全に消化し、位置づけることができる女性として描かれる。母、そして父を脳腫瘍で失う緑は、人間が長 い時間をかけて緩慢に死んでゆく過程に向き合わねばならなかったことで、生が色あせて死となり、さらにそこから先には遺された自分の生が綿々と続いてゆく 現実を、厳然とした事実として受け入れざるをえない。
しかし直子にとって、それは自明のことではない。キズキがいつまでも17歳のままで、生きている自分だけが年齢を重ねてゆくことを、うまく受け入れること ができないように思える。キズキも姉も、突然に向こう側へ行ってしまった。そして、それを受け入れる準備のためのわずかな猶予を、彼女に与えることもしな かった。なぜ彼らは死に、自分は生きているのか?「僕」が直子を抱いた夜、彼女が4時間以上も一人でしゃべり続けたのは、自分が生きている以上は当然であ る「忘却」という作用への、あらん限りの抵抗だったのではないだろうか。自分は、過去というものを、何ひとつとして忘れてなどいない。しかし、その忘却か ら目をそらし、目をそらし、必死にしゃべり続けた後のある瞬間、とうとう記憶の空白へ直子はたどり着いてしまったのではないか。もぎとられたように、忘却 によって抜け落ちてしまった記憶。直子はそれを、自らの罪とみなしたのかもしれない。
直子は、死者との結びつきの強さゆえ、そうして少しずつ死んでゆく。直子を愛していると思ってはいても、深刻に考えすぎず、あらゆる物事にしかるべき距離 をとることを決めた「僕」は、結局は直子に添い遂げることなどできないだろう。また、直子はそれを理解していたからこそ「忘れないで」と言ったのだろう。
「僕」であるワタナベは、そのまま私たちの姿である。私たちは死者についてのあまりに多くを忘れ、その中で逆に浮かび上がる輪郭を懐かしむことができるに 過ぎない。それは、時間の流れの中で死者を置きざりにしなければ生きてゆかれない者の、悲しい性質である。冒頭に「多くの祭り(フエト)のために」という 言葉が掲げられたこの作品は、そうして忘れられてゆかざるをえない多くの死者を弔う、深々と青い鎮魂曲である。
この物語では、死者との結びつき方において、直子と緑という、互いにネガとポジのような性質をもつ二人の女性が両端に置かれ、「僕」はその間を往復する。
緑は、他人の死を、自分が身を置く時間の流れの中に完全に消化し、位置づけることができる女性として描かれる。母、そして父を脳腫瘍で失う緑は、人間が長 い時間をかけて緩慢に死んでゆく過程に向き合わねばならなかったことで、生が色あせて死となり、さらにそこから先には遺された自分の生が綿々と続いてゆく 現実を、厳然とした事実として受け入れざるをえない。
しかし直子にとって、それは自明のことではない。キズキがいつまでも17歳のままで、生きている自分だけが年齢を重ねてゆくことを、うまく受け入れること ができないように思える。キズキも姉も、突然に向こう側へ行ってしまった。そして、それを受け入れる準備のためのわずかな猶予を、彼女に与えることもしな かった。なぜ彼らは死に、自分は生きているのか?「僕」が直子を抱いた夜、彼女が4時間以上も一人でしゃべり続けたのは、自分が生きている以上は当然であ る「忘却」という作用への、あらん限りの抵抗だったのではないだろうか。自分は、過去というものを、何ひとつとして忘れてなどいない。しかし、その忘却か ら目をそらし、目をそらし、必死にしゃべり続けた後のある瞬間、とうとう記憶の空白へ直子はたどり着いてしまったのではないか。もぎとられたように、忘却 によって抜け落ちてしまった記憶。直子はそれを、自らの罪とみなしたのかもしれない。
直子は、死者との結びつきの強さゆえ、そうして少しずつ死んでゆく。直子を愛していると思ってはいても、深刻に考えすぎず、あらゆる物事にしかるべき距離 をとることを決めた「僕」は、結局は直子に添い遂げることなどできないだろう。また、直子はそれを理解していたからこそ「忘れないで」と言ったのだろう。
「僕」であるワタナベは、そのまま私たちの姿である。私たちは死者についてのあまりに多くを忘れ、その中で逆に浮かび上がる輪郭を懐かしむことができるに 過ぎない。それは、時間の流れの中で死者を置きざりにしなければ生きてゆかれない者の、悲しい性質である。冒頭に「多くの祭り(フエト)のために」という 言葉が掲げられたこの作品は、そうして忘れられてゆかざるをえない多くの死者を弔う、深々と青い鎮魂曲である。