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「私が」と「私の」 これらが無知をつくっているのです。「私の家」「私の富」「私の学問」「私の所有物」 人にこのようなことを言わせる態度は、無知からきます。反対に、知識から生まれる態度は、「おお神よ、あなたがご主人であり、これらすべてのものはあなたのものです。家も、家族も、子供たちも、召使も、友だちもあなたのものです」というものです 






ヨーギの心は、つねに神に集中している。つねに自己に没入している。このような人は見ただけで分かる。目は大きく見開かれ、卵を抱いている母鳥の目のように、的を見ない目付きをしている。彼女の心のすべては卵に注がれ、したがってうつろな目つきをしているのだ






例外なく、すべての者が仕事をしているのだ。神の御名と栄光をとなえることさえも、非二元論者が「私は彼である」と瞑想するのと同じように、仕事である。呼吸もやはり仕事である。仕事を全部放棄するなどということはできるものではない。それだから、お前の仕事をしなさい。ただ、結果は神に委ねよ 






「もし妻が「あなたは私をないがしろにしていらっしゃる。私は自殺をします」と言ったら、人はどうしたらよいのでございましょうか」「もし彼女が霊的生活の妨げになることが分かったら、そんな妻はすててしまえ。自殺でもなんでも、好きなことをさせるがよい。夫の霊的生活のじゃまをする妻は、罪深い妻だ。。しかし、もし人が神を真剣に愛しているなら、すべてが 王であろうが、悪人であろうが、自分の妻であろうが 思うとおりになる。夫のほうに神への真摯な愛があれば、やがては妻も霊的な生活に導かれるようになるのだ。もし夫が善ければ、神の恩寵によって妻も彼の手本にならうだろう






本源力は、つねに永遠に遊んでいる。彼女は、いわば遊びとして創造し、維持し、破壊しているのだ






大周期の終わり、宇宙が破壊された後には、母なる神はつぎの創造のために種子をお集めになる。彼女は、家事に入用の雑多な品々を入れておく瓶を持った年配の主婦に似ている。(みなが笑う)






束縛も解脱も、ともに彼女のおつくりになるところだ。彼女のマーヤーによって世間の人びとは「女と金」にまき込まれ、そしてまた、彼女の恩寵によって彼らは解脱を得るのだ。彼女は救い主と呼ばれ。。






「しかし師よ、彼女は、もしそうしようと思えばすべての者に自由を与えることがおできになるはずです。ではなぜ、私たちを世間に縛りつけたままにしておかれるのでしょうか」「それが彼女の思召なのだ。彼女は自分が創造したものとともに遊びたいと思っておられる。かくれんぼ遊びで、もし全部の遊び手がいきなり「お婆さん」にさわってしまったら、みなが走りまわる必要はなくなってしまう。全部が彼女にさわったら、どうしてゲームをつづけることができよう。それは彼女にとって面白くないことだ。彼女の喜びはゲームをつづけることである






もし子供の方が父親の手を握っているのであれば、子供は転びやすい。しかしもし父親が子供の手を引いているのであれば、そんな心配はない






すべては心の問題である。束縛と解脱は、心だけのものである。心はお前たちが染めるとおりの色になるのだ。それは洗濯屋から戻ってきたばかりの布地のようなものだ。それはもし赤い染料に浸せば赤くなるし、青か緑色に浸せば青か緑色になるだろう。何色であれ、お前たちが浸した染料の色に染まるのだ。人が少しばかり英語が読めるようになると、すぐに「フート・フート、イット・ミット」と英語をしゃべり始めるのを見たことはないか。それから長靴をはき、口笛を吹くなど、すべてが同時に始まる。また、もし学者がサンスクリッドを勉強すると、彼はただちにサンスクリッドの詩をさっと朗唱するだろう。悪い仲間と交わると、その仲間と同じように話し、また考えるようになる。これに反して信者たちと交われば、神のことだけを思い、話すようになる






束縛は心のもの、自由もまた心のものだ。人は、もし絶えず、「私は自由な魂だ。世間に住もうと森の中に住もうと、どうして私が縛られよう。私は神の子、王たちの王である。誰が私を縛ることなどできようか」と思うなら自由である。もしヘビにかまれても、「私の中に毒はない」と力づよく言うことによって人はその毒をまぬがれることもある。同じように、勇気と決意をもって「私は縛られてはいない。私は自由である」と繰り返すことによって、人はほんとうにそうなる ほんとうに自由になるのだ






人はもし、「神が行為者である、彼のみがいっさいのことを行っておられる、私はなにもしてはいない」と感じるようになればまさに今生で解脱する。人の苦しみと悩みは、自分が行為者であるという、彼のしつこい思いからのみ生まれるのである






誰も、神は「これ」のみであって他の何ものでもない、などと断定することはできない。彼は無形であられる。そしてまた、彼は形をお持ちだ。バクタのために、彼は形をおとりになるのだ。しかし、ギャーニのためには、つまりこの世界をただの夢と見る者に対しては、彼は無形である






完全な知識のしるしがある。人はそれを得ると沈黙してしまう。そのとき、塩人形にたとえられる「私」は、絶対の存在・知識・至福の海に溶け込んでそれと一つになってしまうのだ。そこには区別のかすかな痕跡も残らない。彼の自己分析が完成しないあいだは、人はやかましく議論する。しかしそれを完成すると、彼は沈黙する。空っぽの水差しが水で満たされると、水さしの中の水が外の湖の水と一つになる。すると、もう音はきこえない。音は、水さしが水でいっぱいになっていないあいだだけ、水差しからきこえるのだ





すべての悩みと面倒は、「私」が死ねば止む。お前たちが何千回推理にふけってもなお、「私」は消えない。お前たちや私のような人びとにとっては、「私は神の愛人である」という感情を持つのがよろしい 






「どんな方法で、人は神を見ることができるのでございますか」「お前は、心の底から神を慕い求めて泣くことができるか。人びとは自分の子供たちや妻や金のためには水差し一杯の涙を流す。しかし誰が神のために泣くか。子供が玩具に夢中になっているあいだは、母親は料理その他の家事にたずさわっている。しかし、子供は玩具にあきるとそれをほうり出し、母を求めて泣き叫ぶ。そうすると、母親はかまどから釜をおろして大急ぎで走ってゆき、子供を抱き上げるのだ






もし水差し一杯の水で私の渇きが十分にいやされるのなら、なんで湖の水量など量る必要があろう。私は、びんに半分の酒を飲んでも酔っぱらうのだ。居酒屋においてある酒の分量を計算する必要がどこにあるか。無限者を知る必要などありはしない






ラクダはトゲのある灌木をたべるのがすきだ。それをたべればたべるほど多量に口中から血がほとばしり出るのだが、それでもラクダはトゲのある植物をたべることをやめない。世俗的な性質の人は多くの悲しみと悩みを経験する。しかし、二、三日たつとそれを忘れ、ふたたび昔の生活を始める。ある男が妻に死なれるかまたは背かれたとしよう。見ていよ、彼はもう一度結婚する






あるとき、私は五十歳になるケシャブ・センの親類の人に会った。彼はカルタを遊んでいた。まるで彼にとって神を思うべきときはまだきていないかのように。縛られた魂にはもう一つの特徴がある。世俗的な環境から霊的な雰囲気の中に移してやると、彼は衰弱してしまうだろう。汚物の中で育つウジ虫は汚物の中でたいそう幸福に感じる。それは汚物の中で栄えるのだ。米びつの中にいれてやれば死ぬだろう






人を縛ってその自由を奪うのは「女と金」だ。黄金の必要をつくるのは女だ。女のために、一人の男が他の男の奴隷となり、自分の自由を失うのだ






一個の人間がもう一人の人間をこの世の束縛から解放する、などということがどうしてできよう。神だけが、この世界を魅了するマーヤーの創造者だけが、人びとをマーヤーから救うことがおできになるのだ






金もまた強力なウパーディだ。金を持つことは人に大きな変化を与える。彼はもはや同じ人間ではない。一人のプラーミンがしじゅうこの寺にきていた。外見はたいそうつつましやかだった。ある日、私はフリダイといっしょにコンナガルに行った。舟から上がるより早く、われわれはそのブラーミンがガンガーの堤にすわっているのを見た。われわれは彼が涼んでいるのだろうと思った。われわれを見ると、彼は「おい、神主さん。ご機嫌はどうかね」と言った。私は彼の声の調子に注目し、フリダイに言った、「あの男はいくらかの金をもうけたのだよ。だからあのような話し方をするのだ」と。フリダイは笑った 






世俗性の、たとえごくわずかな痕跡でも持っていれば、人は神を見ることはできない






完全な魂に二つの種類がある。霊性の修行によって完成に達する人びと、神の恩寵によってそれに達する人びとである。ある百姓たちは、たいそう骨を折って自分の田に水を引く。それではじめて、収穫をあげることができるのだ。だが、それをしないですむ百姓もいる。彼らの田には雨水がいっぱい入るのだ。彼らは水を引くという苦労をする必要がない






人は、自分は肉体であると思っているあいだだけ、快苦や生死や病や悲しみを感じているのだ。これらはすべて肉体だけに属しており、魂とは関係がない。肉体の死後、神はたぶん、人をもっとよいところへつれて行ってくださるのだろう。それは、生みの苦しみの後に子供が生まれるようなものなのだ。自己の知識を得ると、人は快苦や生死を夢と見るようになる






「私は、生まれ変わりと、前生から持ち越す傾向のことをあまり信じておりません。これは、なにかの形で信仰の妨げになりましょうか」「神の創造の中ではあらゆることが可能なことを信じていれば十分だ。かりそもにも、自分の考えが唯一の正しい考えであって他の人びとは間違っている、などと思ってはいけない。そうすれば神が一切を説明してくださるだろう。人が神のはたらきの何を理解できるというのかね?神の創造面の数は無限だ。私はまったく神のはたらきを理解しようなどとはしないよ。私は、神の創造のなかではあらゆることが可能であるときいたから、つねにそのことを心にとめているのだ。それだから私はこの世界のことは考えない。ただ神のみを瞑想しているのだ。人が神のおはたらきを理解することができるものかね?彼はじつに近くにおられるのだ。それでもわれわれには彼を知ることはできないのだ






「知識は、少なくとも一つの点で私たちに善いことをいたします。それは私たちに自分はなにも知らない、つまらぬ存在である、ということを感じさせます」「まさにお前の言うとおりだよ!私はなにものでもない。私はなんぴとでもない 





誰が神を知ることができるか。私は試みることさえしないよ。私はただ彼に母よ、と呼びかけるだけだ。母がお好きなようになさるがよい。もしそれが彼女の思召なら、私は彼女を知るだろう。そうでないのなら、私は喜んで無知のままでいるだろう。年のいかぬ子供はただ母親を求めるだけだ。自分の母親がどのくらい金持ちであるかは知らないし、また知ろうともしない。ただ、「お母さんがいる、心配することはない」と知っているだけだ 





ラーマクリシュナの福音要約版上巻より