完全な最終的自己喪失をもたらすのは、エクスタシーでも、霊的結婚でも、それらに類似したどんな体験でもなく、長年にわたる無私の生活なのです。それは自分の満足を求めずに、自己を殺す生活です。しかしながら、この無私の献身は、最初に自己と神との合一がなければあり得ません。この合一がなければ、献身生活は不可能なのです
「判断」は、事物が実際にどうあるかではなく、どうあるべきかという願望的思考に基づくので、今ここにある現実を覆い隠してしまいます。こうした判断が終わるとき、精神は深い思いやりと理解に向かって開かれます。そこでは自己のためのものはもはや何もありません。この段階に来るまでは、私たちのいかなる関係も善行も、仮面をかぶった利己主義以外の何物でもありません
観想者が初心者のときには、自分がある大きな力にとらえられ、征服されるように感じるかもしれません。熟練者になると、自分の通常の状態にほんの少し微妙な変化が生じた程度に感じられ、さらに段階が進めば、その恩寵は、自分のごく自然な習慣的あり方と感じられることでしょう
大切なのは、私たちが扉を開いたままにしておくことです。他者の見解に対してだけでなく、神に対して、また神の助けが与えられる無限の可能性に対してです。神は、人を導き、照らし、人をその最終目的地へと連れて行くことができるのですから
彼は、合一が感情に根ざしたり、感情によって適切に体験されたりすることはないと、何度も繰り返し私たちに教えています。そのような低劣な機能は合一の中に入り込むことはできません。少しでも感情の氾濫が体験されるなら、それは弱さのしるしです。魂が、完全に浄化されていない、あるいはまだ合一していないというしるしなのです
神のみが神であることを確証でき
暗夜以前、神を求める私たちの思いとは、単にこの内への引力に同意することでした。それは、精神が思い描いた神を見出だそうとする、人間の側からの能動的努力、意志、願望でした。しかし、暗夜の中では、この能動的な努力は能動的受動性に取って代わられます。なぜなら行くべき方向を知っているのは、私たちを引きつける神のみだからです。精神には、この方向を思いつくことも、知ることもできません。ですから、精神によって追求することはできないのです。要するに、あまりの下降の深さといい、求められる受動性といい、私たちの思考能力をはるかに超えていて、精神は文字どおり圧倒されます。神と合一するのは、私たちの精神ではなく、神への意志です。この意志こそが、神がご自身のために人間の自己に付与された特殊な面であり、それが、暗夜の中でついに安息の家に到達するのです。
私が思うに、問題が生じるのは、「あるがままの」日常的現実に基づかず、何が完全であるかを頭で考えて、それに合致した自己像を追い求めようとするからです。人が「完全」について抱く概念は、必ず相対的、推測的、表面的にならざるをえず、意識しないうちに、微妙に自己中心的なものとなります。神が創られたもの、およびその真の完成像について知っているのは神ご自身しかおらず、私たちがその完全像について知ったり体験したりできるのは、沈黙の中で学ぶことがらだけです。そこにおいて、意志は神の意志に流れ込みます。存在の中心にあるこの受動性に導いてもらおうと自らを委ねるのは、容易なことではありません。なぜなら、それは完成について私たちが頭で考えていることや期待していることに逆らうことを意味するからです。それはまた、私たちが抱く自己像や、自分の理想像にも、そして社会や周りの人たちにも逆らうものです。完全に受動的になり、完全に神に従属することは、人間の最も困難な達成目標です。私たちがこの困難な旅を始めるには、まず神との持続的な合一を発見しないことには、一歩も進めません。この発見があって初めて、私たちはあ
りのままの自分を受け入れて自己を手放し、その中心が私たちの最終目的地であると信頼して、それに受動的になることができるのです
観想的合一に関するこの議論を終えるにあたって、注意しておきたいことがあります。それは、神はその意志を私たちに伝えるに際して、概念をもってすることはない、ということです。もしそうするなら、人間と神との最も深い合一は、一種の知的合一になってしまうでしょう。しかし私たちの合一の中心は、心や知性よりも深いレベルにおけるものです。それは実存のまさに中核、すなわち「神への意志」において起こるものです。この意志は沈黙の力です。考えることも、話すことも、記憶することも、イメージを描くこともありません。この沈黙の力は、神から活力を受けています。そしてこの沈黙の中で、私たちの意志は神の意志へと流れ込み、いのち、力、徳を受け取ります。神の意志を知るのに必要なのは、ただ沈黙を保つことだけです。その静かな中心にとどまれば、ひとりでに、何の考えもなしに、今の瞬間を、そして今の瞬間のあるがままの自分を完全に受容することができるのです。したがって、いかなる知的探求も、たとえ神の意志を確かめようとするしばしば苦渋に満ちた努力であっても、それは今の瞬間と今の状態の受容を拒否することにしかなりません。合一
生活の極意は、これらの意志の受動的沈黙の中に生きる恵まれた能力です。その沈黙は、いついかなるときもそこにあり、いつも神と一つです。神との本当の交わりは、絶対的な、完全な沈黙です。この交わりを言い表すことができる言葉は、一つとしてありません