実際には存在しない「負債」によって人民を支配する
イルミナティの金融攻撃は、ローンを急増させて好況を創り出した後に、栓を引き抜くのが常套手段
各国の政府は、利子の不要な独自のマネーを作るのではなく、民間が所有する銀行カルテルからマネーを借りて、国民からの税金によってその元利を支払っている。あなたが払っている税金から、途方もない金額が私人の所有する銀行へのローン返済に直行しているのだ。本来ならば政府は、利子の不要な自前のマネーを作ることができるようにというのに!
「物理的な」現実が存在する唯一の場所は、私たちの脳の中であり、五感が振動的な情報を脳のための電気化学的情報に翻訳し、脳はさらにホログラフィックの、幻影的な、「物理的」現実に翻訳している
暴動は敗北を招くがゆえに、革命的ではなく反動的なである。暴動は感情的発散を伴うが、やがて必ず不毛だと感じるようになる
私たちは支配権力の枠外で機能する地域通貨の計画っくりを始める必要がある
花や鳥の絵に向かって這っていく赤ちゃんにショックを与えられるが、これは、子供たちが自然を愛するようになるのは国家にとって望ましくないからである
大事なポイントは、子供たちと一般の人々を「左脳の囚人」と私が名付けた存在に変えることである
イルミナティの発想はこうである。「可能な限り早い時期に幼児を左脳的な情報で攻撃し、左脳を刺激して、右脳の活動力を閉じ込める。これによって子供たちは、多次元的な目覚めから切り離され、イルミナティがコントロールしようとしている物質的現実の世界の囚人になる」
「自由貿易」(=自由搾取)
結果を計算に入れると、常に 残念なことだが常に、自由は破れる。「正しいことをしようと思うんだが、でも…」。この「でも」が、私たちを奴隷化しようとしている人々に力を与えてしまう
「振動していたら、それは幻想なのよ」
世界覚醒原論 真実は人を自由にする デーヴィッド・アイク著より

死人禅とは、透徹して徹底的なまでに、この世界、あるいは存在を否定する。そういう点では、これは禅ですらない。その最大の根拠は、肉体や物質次元というものは、低次元という意味ではなくて、「部分的次元」であるからだ
すでに、一連のこの文章で述べたように、ある知性体が宇宙の発生の初期段階において、「意識の分化」を行った。だが、よく聞きなさい。この分化作業は、創造者が自分の子供たちを生んだとか、自分の分身をばらまいたとか、個別化して宇宙を経験しようとしたとか、そんな哲学や神学上の「きれいごと」の動機で行ったのではない。いかにして全知性体生物を落ち着かなくさせるかを目的としたのだ。落ち着かなくさせる、ということは活動を生み出すということだ。全宇宙の存続というたったひとつの、たいして意味もない動機のために、いかにして活気あふれた宇宙(言い換えれば狂ったような宇宙)にするかが論議され、また、実験を繰り返した。そんな中での画期的な考案が意識の「個別化」だった。もともとひとつであるものを分解すれば再結合しようとする原理によって動きが生まれる。だが、結合したのでは運動は止まる。したがって、いかに結合させまいとするかが宇宙の創造の初期にいた数名の知性体の主な業務となった。(ある資料によれば、この宇宙はたった6人の気違いが管理しているということ)
不幸の本質は、人が何かを得られないとか失うという問題ではなく、それらの葛藤を通じて「落ち着かない」ことにある。とりわけ落ち着かない原因の本質は、実際に人間が単独で生み出すのではなく、関係性から生まれる。ただし、この外部との関係の中には、ほぼ全存在を含有する論法を取るので注意しなさい。すなわち外界と命名されたものは何もかもが外部だ。情報も知覚も、無論それらの集合体である記憶や思考もすべてが「あなた」の外部と定義されるのである
さて、ある種の人々はこういうだろう。「とんでもない。私は他人になどかかわっていない。私は、宇宙がなんであるか、神がなんであるか、世界がなんであるか、そして幸福にしか興味がない」と。それに対するコメントは次の通り。「それこそが他人である」
一方、東洋は、私が見る限り、日本というのは、基本的にヒンドゥー教徒とキリスト教徒しかいないと見ている。外面的な問題ではなく、内面現象としてである。つまり、神道などの御利益さえあれば、なんでもござれの精神は数百の神々を拝み倒すような気違いのようなものだし、一方世間でまかり通る仏教すらも、仏教宗派同士でこっちが「唯一」と言っている限りはそれは一種の狂ったキリスト教だ。
さて、ブッダという男がいた。実のところ、最も優れたワークは依然として彼が弟子に強調した2年の沈黙なのである。おそらく、どのメソッドをやったところで、一定期間の沈黙に勝るものはあるまい。
沈黙の中で何かが知られるのではなく、沈黙そのものがゴールだったことをブッダたちは知っているからだ
TAOは引算だ。その他すべては足し算や掛算だ。社会は常に人々の思考数値を増幅しようとする。だが、それに対して禅は「1本の針」で人の脳をつつく。だからそれは引算だ。横に置かれた一本の針「-」はマイナス記号を表す
地球人は物質に依存しているのではなく、「物質がもたらす安定した環境」に依存している。従って、これは物質主義ではなく、厳密には「安定主義」と呼ばれるべきかもしれない
世間に私は必要ない。そして世間も私を必要としない。それはつまり、「世間は悟りを嫌いだ」ということだ。世間は水に飢えてはいない。世間が飢えているのは、自分の人生の退屈しのぎのためのグルメ指向の料理だ
次に、たとえば、無思考の落ち着き。これが本当に好きならば、あなたたちはとっくに考えることをやめている。だが、あなたたちは、思考が好きなのだよ。とても好きなのだよ。だから、思考をやめろとか、落ち着けと言っても、それは子供からおもちゃを取り上げようとするようなもので、あなたたちは内面では実は激怒しているのだよ
落ち着きや愛が好きならば、とっくにあなたたちはそうしている。だが、あなたたちは愛が好きなのではなく、特定の人や物や考え方が好きな、その自分の熱烈な好みと執着、その特定の者への愛着を愛と勘違いしているようだ
あなたは例えばテニスや釣りをやりたいと思ったら、無理にでも自分の時間を作り、無理にでもお金をつぎ込み、あなたは誰かに強制されなくたって、やるだろう?なのにどうしてあなたたちは、愛情をもてないのかね?つまりは、あなたは愛情が嫌いなのだよ。それよりも憎しみや軽蔑のほうがあなたの優越感がざわめき立って刺激的なので、そっちの方がお好きなのだよ
ブッダたちの側から言わせれば何がうっとおしいかと言うと、まさにその「優しさ」がうっとおしいのである。なぜならば、女性の優しさは、「例外」を持つからだ。それは普遍的なものではなく、ある特定の者(子供や恋人、あるいは犬猫)は愛し、それに敵対するものや別の生物(昆虫など)を呪うという矛盾したものだからだ。ようするにそれは形而上学的な愛ではなく、ただの偏愛にすぎない
混乱とはあなたが分かろうとすることから生まれる
必要だという観念を落とす事以外に必要なことは何もない
あなたは生まれながらに、全くの一人であり、まったくのぜん体であり、またそのいずれでもない。そして、あなたはうまれながらにこうしたことをすでに、知っており、うまれながらに、こんな言葉を
聞いたり、探求する必要などどこにもありはしない。あなたは、もう、付け足すべきではない
質問=ここに存在している私とは、一体誰なのでしょうか?
回答=あなたは生まれながらに、にんげんなどという生物ではない
あなたは生まれながらに、 だんじょのいずれでもない
あなたは生まれながらに、若くも老いてもいない
あなたは生まれながらに、賢くもなく、愚かでもない
あなたは生まれながらに、何ももっておらず、何も持たないのでもない
あなたは生まれながらに、何も知らず、また無知であるわけでもない
弱くも強くもない
にくたいでも精神でもなく、魂でもない
迷ってもなく、さとってもない
ただ、なにものでもない
ただ存在し、ただ死ぬ
人類にぴったりの「あだ名」がある。「ゴミ収集家」だ。ゴミオタク。ゴミ*マニアだ。そのゴミの種類が、瞑想や神や、禅であれ愛であれ、なんであれ、その種類に関係無く、我々が手にした瞬間にそれはもはや、ゴミになる。重荷になる。だから下心のある瞑想などやめなさい。光明や悟りのための瞑想や座禅など捨てなさい。捨てて、手ぶらで生きて、手ぶらで死になさい。そうしたら、その手ぶらそのものが、本当の瞑想そのものだ。だから、くだらない古人の言葉なぞ捨ててしまえ
ゴミといえば、かつてラマナ・マハリシは、「思考を分析する必要があるのかないのか?」というような質問に対して言ったものだった。「ゴミ袋から中身をわざわざ出して、それらを調べる必要がどこにあるんだね?」
問いをしてみては、いちいち解決しようとするのと、単に問いがなく、落ち着いているのと、一体あなたはどっちが美しいと感じるだろう?「分からないから問うのだ」と言うが、実は問いを発する者は無知ではない。というのも、本当に無垢で無知なら、問いそのものがないからだ。あなたが問うということはすでに、あなたの中には自分で知っているもの、決め付けているものが必ずある。問いは、常にあなたの中に分別や自分で知っている幾つかの既知のものを組み合わせて発生する。
もともとこの世界は実によくまとまっており、何一つ間違いなどない。だが、たったひとつの間違いがある。それは、水の中にいて、水を知ろうとか知りたいとか、体験したいとか、見たいなどという、あなたの問いそのものが大間違いなのだ。そのまちがった問いから始めたら、どんな探求も科学も文明もナンセンスなものになってしまう
だが、その道は思考すること、あるいは観察や学習や発展することに全価値観を持つ人類にとっては、とても困難な道になるだろう。というのも、彼らは宝を探しているのだが、彼ら自身が「動きまわる宝そのもの」であることに気がつかないからだ
我々の境地は誰も崩すことが出来ない。なぜなら、我々は「境地など持っていない」からだ
悟りには本人の錯覚も過大評価もありえない。なぜならば、その「本人がもういない」のだから。逆にいえば、本性と言う意味での本人しか、もうそこにはいない。それ以後、その者が探求することはあり得ない。しかし、それは特定の境地に執着しているのでもなく、確信や自身が支えているのでもない。そんなものは何度でもひっくりかえされるものだ。事実、あなたたちのどんな楽しみもいずれは退屈となり、どんな確信も不確定になり、自身などなんの役にもたたない
byEO

