保守といふもの、そもそもは、
物のあはれを知り、時の流れに耐へ、
ことば少なに、されど深く、
受け継ぐとは何かを問ふ者の姿にこそ、ふさはしきものなり。
なれど、近き世にては、
保守と名乗るものの多く、声高にして、言葉軽く、
「伝統!」「家族!」「国を守れ!」などと、
いかにも分かりやすき言葉を連ねては、
自らを正しき者と信じて疑はず。
おほかた、その手の者は、
伝統と申しても歌会など詠まず、
家族と申しても親の老いに顔をしかめ、
国を守ると申しても、SNSで喚くばかりにて、
隣人の声には耳を塞ぐものなり。
かかる者ども、いとあさまし。
されば、かやうなる保守もどきをば、
ばか保守と名付くるは、理の当然なり。
ばか保守といふは、
守ると見せて壊し、
語ると見せて騒ぎ、
知と見せて感情を撒き散らす者どものことなり。
真の保守とは、声なき声に耳をすまし、
急がず、奢らず、
残すべきものを選び、捨てるべきものに涙する。
それは、時に痛みを伴ふ仕事なり。
さすれば、保守とばか保守の差は、
知の沈黙と無知の喧騒のごとし。
あはれ、保守を騙るばか保守よ、
その声高な正義は、まことに軽きこと、
風に舞ふ木の葉のごとし。
さても、草子はかく書き留めおきぬ。
「何を守るか」を問ひ得ぬ者に、守るべきものなどあらぬと、
後の世の者に、笑はれぬやうに。