さて、久しぶりに堅い記事。歴史に関する記事です。
私は、大学時代、西洋史学科に所属し、ドイツ史を専攻しました。卒論テーマは「ビスマルクの外交政策」についてでした。
なので、ドイツ史は非常に興味を持ち続けているテーマであります。
ドイツというのは非常に複雑な過程を経て成立した国なのですが、ドイツ史においてキーマンとなる人物を挙げよ、と言われれば、私は「フリードリヒ大王」、「ビスマスク」、「アドルフ・ヒトラー」の三名を挙げます。
今回は、そのヒトラーについて、考察したいと思います。
よく、ヒトラー、そして彼の率いたナチス党は、選挙により合法的に政権を奪取した、というように言い、民主主義の腐敗によって独裁政治が発生したかのように例えるのを目にしますが、果たして本当にそうだったのでしょうか?
結論から先に言えば、「途中までは確かに選挙によって勢力を拡大していったが、その最後は暴力を用いて政権を奪取した」というのが正解です。
ヒトラーが首相に任命される前のドイツの政治はどのような状況だったのでしょうか?
第一次世界大戦後のハイパーインフレを乗り切り、危機を脱したワイマール共和国は、1924年から29年にかけ、相対的安定期を迎えていました。この時期、ドイツ首相はシュトレーゼマンが務めており、彼の政治手腕により、色々な問題はあったにしろ、ドイツの政治は一時的安定を迎えていました。
しかし、1929年10月に大恐慌が起こり、同月に首相のシュトレーゼマンが死去したことにより、ドイツは経済・政治共に一気に不安定となります。
そして、1930年から33年にかけては、大統領内閣時代と呼ばれ、大統領ヒンデンブルクの出す「大統領緊急令」によって国内統治を行うことしかできなかった三つの短命内閣(ブリューニング、パーペン、シュライヒャー)が続きます。
しかしながらいづれの内閣も事態を収拾することはできず、1933年、1月30日にヒトラー内閣が発足します。
ナチス党は、1930年9月の選挙で第二党(得票率18.3%)になり、1932年7月の選挙では第一党(得票率37.3%)となっていたが、32年11月の選挙では200万票を失い、得票率も33.1%に下降。その勢いに陰りが見えていました。
そのような状況下で、ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領により、首相に任命されました。
ここで、ワイマール共和国の統治システムについて説明したいと思います。
ワイマール憲法は、国会に基礎をおく議院制内閣を定める一方で、国民の直接選挙で選ばれた大統領に首相・閣僚の任免権、国会の解散権等の大きな権限が与えられていました。
首相・閣僚は国会の信任を必要とし、国会は国民投票を通して大統領を罷免することができました。
つまり、国会と大統領の二元主義がワイマール共和国の特徴でした。(現代日本の地方自治制度に近いと言えるでしょう。)
このような制度では、国会の多数派を占める人間が首相となり、大統領と二人三脚で政権運営を行えれば、政権は安定しますが、大統領と首相の間に確執があってもうまくいかないし、国会に多数派を占めない首相が政権運営をしても上手く行かないということになります。
1930年から32年の大統領内閣時代がまさにその状態でした。首相は国会に多数派を持たず、大統領の権限にのみ頼って政権を維持しました。これにより、混乱に拍車がかかっていました。
こうした決められない混乱状況の中で、ナチス党は得票を伸ばし、32年7月に第一党の座を確保します。この時の第三党はソ連型独裁制を志向していた共産党でした。
このような中、ヒトラーを嫌っていたヒンデンブルク大統領でしたが、取り巻きの進言をいれ、共産党の伸長を抑え、保守派の権益を守るため、ヒトラーを首相に任命するのでした。
最初のヒトラー政権はヒトラーの他に入閣したナチ党関係者は2名だけ、残りの閣僚ポストは保守派によって占められた、保守派との合同内閣でした。国会に占める与党の割合は41.6%。少数与党内閣でした。
大統領と保守派の狙いは
・機能不全に陥った議会制民主主義を廃止し、大統領の権限による政権運営。
・共産党の撲滅
・ドイツ強化に向けての再軍備
でした。これをヒトラーを利用して行おうと考えました。
それに対して、ヒトラーは、一気に自身の権力基盤を固めようと勝負に出ます。
連立する保守派の反対を押し切り、国会を解散、3月実施の選挙に打って出ました。
ヒトラーはこの選挙にありとあらゆる干渉を行いました。
・大統領緊急令を発令させ、集会と言論の自由に制限を加えた。
・ナチ党の突撃隊と親衛隊をプロイセン州の補助警察として、選挙運動に干渉し、他党の選挙運動を妨害させた。
・2月27日に起きた国会議事堂炎上事件を共産主義者による国家転覆の企てと断じて、大統領緊急令を公布して、共産党員等の左翼運動指導者を一網打尽にすると共に、人心の自由、言論・集会・結社の自由、信書・電信・電話の秘密、住居不可侵等の基本的人権を停止した。
このような干渉選挙を行ったにも関わらず、ナチ党は過半数を獲得することはできませんでした。連立与党としてかろうじて過半数を獲得するという状況でした。
そこで、ヒトラーは一気に権力を手中に収めようと、「授権法」を国会に提出します。
この法案は、「全権委任法」とも言われ、政府が国会から離れて自由に法律を制定できる、つまり、立法権を政府に与えるという法律でした。
これが成立すれば、内閣は、自分たちの思う法律を自由に成立させることができるようになります。しかも、制定した法律が憲法違反であっても法律の効力を認めるというものでした。
四年間の時限立法でしたが、これが成立すれば、ワイマール憲法は有名無実化し、共和制は崩壊することになります。
この法律の成立には、国会議員総数の三分の二以上の出席と、出席した議員の三分の二以上の賛成が必要でした。
ナチ党とその連立政権は過半数の議席を獲得していたものの、過半数には届いていませんでした。
そこで、ヒトラーは事前に野党の欠席戦術を防ぐため、議長(ナチ党員が議長でした)が認めない事由で欠席するものは登院を認めず、欠席は出席とみなすという議院運営規則改正案をあらかじめ通過させます。
そして、共産党議員は先の議事堂炎上事件における国家転覆罪で逮捕、反対野党のうち、中央党には突撃隊を議場に入れて圧力をかけて賛成に回らせました。
その結果、全権委任法は社会民主党の反対にあったものの、必要な賛成数を集め、成立します。
これによりヒトラーは自由に法律を成立させられるという強大な権限を手に入れ、それを元に自身と党の反対派を政府から追放し、権力強化に邁進します。
そして、ヒンデンブルク大統領の死去に伴い、首相と大統領を兼務する総統となるのです。
どうでしょう。この流れ、ナチスが選挙により、合法的に政権を手にしたと言えるでしょうか?ある程度までは確かにそうでしたが、政権を手に入れるその最後の一手は、暴力的手段の連発でした。
彼等はクーデターこそ起こしていないものの、それに近しい暴力的行動によって政権を奪取したのです。
故にこそ、民主主義というのは、常に最後は暴力的手段によって破壊される、ということを理解しておく必要があると思います。