いよいよ物語も中盤に入ってきました。

 

これまでの話はこちらから。

 

連続小説「A氏の日記」 その1

 

連続小説「A氏の日記」 その2

 

連続小説「A氏の日記」 その3

 

連続小説「A氏の日記」 その4

 

連続小説「A氏の日記」 その5

 

連続小説「A氏の日記」 その6

 

 

それでは、本編です。

 

 ホール内にA氏の声が響きわたった。パルミーと呼ばれた老婆は、ゆっくりとA氏の方に振り返った。

 身長は120センチほどであろうか。小さく、そして痩せていた。髪の毛は真っ白になっており、その先は二メートルになろうかというほど伸びていた。顔には深い皺が刻み込まれており、その目は盲目であることを示すように、白く、どんよりと濁っていた。

 一体この老人は何歳なのだろうか。見たところ、百歳は軽く超えているのではなかろうかと思ってしまうような姿形をしていた。

「おや、これはこれは、公爵閣下。わざわざこんな所までお出ましとは、またこの婆に何かご用かな。」

 パルミーのしわ枯れた声がホールに響きわたった。

「パルミー。その『公爵閣下』という呼び方は止めてくれ。」

 A氏は不愉快そうにパルミーに文句を言った。

「公爵閣下は、公爵閣下さ。私にとってはね…。会った時からそう呼んでいるんだ。二百年以上も慣れ親しんだ呼び方を、今更変えられるもんかい。」

 そう言うとパルミーは振り返り、横に置いてあった皮袋の中から黒い粉を取り出し、鍋の中身にふりかけた。黒い色をした蒸気が鍋から立ちのぼり、辺りに鼻をつくような臭いが漂った。

 思わずA氏は顔をしかめた。まるでタマネギが腐ったような臭いだった。

「一体今度は何を作っているんだ。」

「ああ、これかい。つまらない薬だよ。ただの精力剤さ。」

「精力剤?。」

「ああ。一粒飲むと十回はもつ、という強力なやつさ。さる政治家の秘書から頼まれてねえ。若い愛人ができたので、その夜のお相手が大変らしい。本人にはもうそんな体力は残っていないのに、無理をするから、とうとう体を壊してしまったらしい。」

「それでパルミーを頼ってきたわけか。無理をするからそういう事になるんだ。」

 A氏は軽蔑するように言った。

「全く人間というのは愚かしい生き物だ。決してかなわない欲望をただひたすらに追い求める。分不相応な夢ばかり…。私には理解できんな。」

「だからこそ人間なんじゃよ。公爵のようにそうそう悟りは開くことはできんよ。」

 鍋をゆっくりとかき混ぜながらパルミーは答えた。

「ところで、今日来た用件は何だい。又何か必要なものができたのかね。」

 パルミーは問いかけた。

「いや、この前もらった薬の代金を持ってきた。」

 そう言うとA氏はパルミーの傍らに、革袋を放り投げた。「ジャラン」という重々しい金属音が響き渡った。見ると、革袋の中には金貨が数十枚詰まっていた。

「あの薬、売れたのかい。」

「ああ。若いサラリーマンに今日渡した。酒に弱いと言っていたから丁度よいだろう。」

「そうかい…。で、注意はしたんだろうね。」

 パルミーが尋ねる。

「ああ、ちゃんと『飲み過ぎるな』と言った。後は本人次第だ。」

「そうかい。なら、いい。」

 鍋をかき混ぜるパルミーの手が止まった。何か、そう、遠い昔を想い出そうとするかのように目を細め、暗い闇をみていた。

「あれをこの前に使ったのは七十年前だったかねえ…。確か亜米利加だったか。」

「そんな前の事は忘れたよ。」

 興味なさそうにA氏はつぶやいた。

「公爵と初めて会ったのは、確か仏蘭西だったねえ。」

 遠い、遠い昔を思い出すかのようにパルミーはしゃべり続けた。

「英吉利、亜米利加、独逸…。まさか、又この日本で再びアウトは思わなかったよ。」

「パルミー。今日はやけに年寄りくさい事ばかり言うんだな。珍しいこともあるものだ。」

 傍らに置いてあった瓶を見ながらA氏は言った。瓶の中には、人の胎児がホルマリンに浸されて入っていた。A氏は顔色ひとつ変えようとしない。

「私も年だよ。もう、二百年も生きたんだ。年寄り臭くもなってくるさ。」

 二人の会話は尋常なものではなかった。一体、どこに二百年も生きられる人間がいるだろうか。それに、それが事実とするならば、A氏もパルミーと同じだけ生きていることになる。しかし、A氏の姿はごく普通の二十代の青年にしか見えない。一体、この二人は何者なのだろうか。もし、第三者の立場にたつ人間がこの場にいたならば、きっと同じ疑問を持ったことだろう。

「では、私は帰る。」

 そう言うと、A氏はパルミーに背を向けて歩み去ろうとした。

「公爵閣下。」

 パルミーが呼び止めた。A氏は歩みを止めた。

「今度はこの街で、この東京で一体何をするつもりなんだい。六十年前、独逸でやったのと同じ事を又やるつもりなのかい。」

 パルミーの声には少し刺があった。咎めているようでもあった。

「どうした。気になるのか。」

 A氏の冷たい声が響きわたった。

「ああ。日本は私の母親の故郷、父親の国の次は母親の国。人間なら誰でも気になるのが当然じゃろう。」

 パルミーが答えた。

「人間ならか…。やはりパルミー、お前も人間なのだな。」

 A氏はつぶやいた。A氏は依然パルミーに対して背を向けたままだった。そのため、彼の表情をうかがうことはできなかった。だが、その言葉には、軽蔑と、哀れみが微妙にミックスされているのが明らかにわかった。

 パルミーはA氏に再び何か言い返そうとした。しかし、口をつぐんだ。

 言っても仕方のない事だった。今の状況を望んだのはパルミーだった。今更後悔したところで決して元には戻らないのだ。

 パルミーは小声で何か一言、二言つぶやくように言った。そして再び無言で鍋をかき混ぜ始めた。

 A氏はパルミーの方に振り返ってみた。彼女の背中が、いつもより小さく見えた。

「やはり人間か…。」

 そうつぶやくと、A氏は洞窟を出口に向かって歩き始めた。