無題
はじめに
従来私は世の中に対して自分をさらけ出すことを躊躇い、私事は表に出さぬようにしていた。しかし、まもなく満81歳にもなろうとしている今、私は世の中に自分というものをさらけ出すことにした。しかし私の身内の者は当然そのようなことを好まないに決まっている。従って私がこのブログに書いていることは身内の者に秘密にする。
しかしこのことはきっと誰からか身内の者の耳に入るだろう。それはそれでよい。ただ、将来、身内の者がこのブログを読んでダウンロードし、本にして出版するかもしれないことを念頭に、あまり赤裸々なことは書かないことにする。今後10年プラスマイナス何年か後に私の寿命が尽きるだろうから、私がこの世を去った後、このブログに書かれていることがそのまま本になるように考えながら筋立てを構成して行こうと思う。全般として教訓的なことがこのブログの主な中身になるだろう。
私の生い立ち
私は昭和12年(西暦1937年)5月6日に「本籍に於いて出生父有田一臣届出」、と戸籍謄本に記載されている。戸籍主は私の曾祖父與四郎で、本籍は大分縣大分郡別保村大字皆春参百八拾六番地である。戸主は與四郎の弐男又平である。この古い戸籍謄本によると、私の母トモヱは夫でる私の亡父一臣の実家で私を生んだことがわかる。
トモヱの実母マサはトモヱが15歳のとき他界した。トモヱの12歳年下の妹須美子、つまり私の叔母の話によれば、トモヱは別府高等女学校を出たあと幼い須美子を連れて国東の親戚の家に住んで、小学校の代用教員をしていたという。須美子叔母から聞いた話によれば、トモヱは岩崎と言う視学の世話で一臣と見合い結婚をした。視学は教育長のような役職である。
田舎では祝言(結婚式)は夫となる人の家で行われるが、一臣とトモヱの祝言は別府市内の旅館で行われたという。須美子叔母はその席に呼ばれなかったことを大変悔しく思ったという。結婚の翌年私が生まれた。お産をするときは実家でするのが普通であるが、一臣と結婚したトモヱは私を生むとき、義父母の家、つまり私の祖父母の家で産まなければならなかった。
そのトモヱは終戦翌年12月18日、乳がんで他界した。このことについては後で書く。通称「門田」あるいは「善福寺」と呼ばれていたところに私の先祖・曽祖父母・祖父母たちが眠る墓地があり、其処にトモヱも、母乳の代わりに重湯を飲まされていて栄養失調状態で死んだ私の末弟哲郎たちも眠っている。その墓は現在亡父一臣の末弟の家族が守っている。
私の父一臣が書いた一臣自身の履歴書には、父一臣は昭和13年(西暦1938年)3月25日に朝鮮の慶尚北道に出向を命じられ、4月5日に大邱公立尋常小学校に勤務を命じられている。その時私はまだ乳児だった。その履歴書によれば、私は父の転勤により大邱→永川→柳川と移り住んでいる。その間に私は乳児から幼児になり少年になった。その頃の撮られた写真がある。それは須美子叔母が私と弟を写真館に連れて行って撮られた写真である。裏に当時18歳であった須美子叔母の字で「昭和十九年八月十三日撮影」「私が連れて行って撮ったの とても好い子達ですわ」などと書かれている。翌年8月私が小学校2年生のとき終戦となり、2学期に一学年下の弟と共に祖父又平に連れられて別保小学校に編入した。
