旅とお酒 | やっぱり一人が好き

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 何年も日記のようなブログを書いていると、私の悩みは、一人でいるか、ワイワイするのかで揺れていると思う事がよく分かった。

 まさにその点が私の心のわだかまりであるし、辛いところである一方、生きている証拠でもあると思う。

 私は、お酒を飲む方ではないが、飲む席では、結構飲んできた。最近は、全然飲まなくなったが。
 また、時間があると、かつてはよく、色々な所に出かけた。一人が多かったが。それでも、別の他人と一泊旅行もしたものである。
 時間・お金。この2つを一瞬で失う。ありあまる金がある人は、そうでもないと思うが、私としては、かなりの出費であった。

 なぜ、こんなことにお金を使ったのだろうか?はたまた、今後も、使うのだろうか?

 それは、一言で言えば、非日常である。日常は、本来楽しいはずのものであるが、しかし、楽しくともそれが、ルーチン化すると、離れたくなるのが、人間だと思う。

 特にそれは、「別の人との出会い」を何処かで求めているのだと思う。

 お酒は、時間が少しあるとき、旅行は、時間がある時、見果てぬ欲をもとめて、それを意識していなくても、酒、旅行を求める。

 学校の先生が、修学旅行中で、引率している最中に、「派遣型風俗店」に依頼して、お金で解決するなどを、ニュースで見ることがある。

 ホテル代は、ただだし、生徒も寝ているから、「性欲」に走るのであろう。

 はしたないと考える人も多いと思うが、私が見た事件では、その先生は、懲戒免職になっていたが、少しきつすぎる処罰だと思ったりした。

 先生にとっても、ある種旅行であるから、テンションも上がるのであろう。大人なら分からないでもない気持ちである。

 しかし、懲戒も、分からなくもない。

 だいたい、なぜばれたのか?こういうものは、基本的にチくる人間がいるのであろう。バカバカしい。そのチくる人間を懲戒免職にすればいいのにと私は、思う。

 元号も変わる。天皇が変わる前に、ベルギー、スペイン、オランダ、ここらあたりの王族もここ何年かで交代している。

 なんなのか?

 私には知る由もないが、世界で、大きな変革に来ていることは間違いない。

 些細なことを、些細なことと済まさず、些細なことを気にする「繊細」な者たちを擁護する世界。そういう者は、これからは、些細な者になり下がる番である。間違いない。こういう変革の時でもある。

 小汚い精神の持ち主は、どうしても、自分を主張する必要があるので、今まで、大手を振っていたが、もう、終わりである。病院にでも行って、自分の生きにくさを薬で止めてもらえばいいのである。いずれ、滅びるだから。

 このような、変革あるはずである。今まで、常識が常識でなくなる。

 私が、お酒を飲みにいかなくなり、旅行にいかなくなったように、消えるべきものは、消えるはずである。

 または、それを願う。

 ところで、酒と旅行の話に戻すが、どちらも、あまり建設的なものではない。なのに、なぜ、それに人ははまるのか?どんなに素晴らしい所に行っても、どんなにいい酒をのんでも、それだけは普通は満足できないはずである。

 素晴らしい景色は、心が洗われ、そして、見果てぬ性的欲を満たす。

 おいしい酒は、自分が好きな人と飲むか、好きになる人を思い描きながら飲む。

 家族旅行?家族で、ご飯たべて、何が楽しいのか?旅行へ行くんだという、事実を作るだけど、家族は個々バラバラの事を考える。性欲である。

 夫婦が仲が良ければ、別だが、仮に、それに、子供、思春期の子供が混じれば、その夫婦と子供は別の事を考えている。どんなに一緒に行動しようが別々である。

 普段と違う所に行くのは、同じである。しかし、意識は、バラバラ。日常から、解放され、思いをはせるのである。

 「また、会いたいな」と。

 その為、旅行やお酒を飲みに行くのである。

 その旅行も何かにかこつけるのが通常である。

 家族旅行、修学旅行。みんな同じである。修学旅行の生徒にしても、その地で素敵な出会いがあると望んでいると思う。

 そういうのが全くないのが、つまらないという事になる。

 仏教系の学校などでは、大本山に行ったりする。山の中の大本山に泊まるのである。

 そこで、タコ足配線をしまくって、ずっと、ゲームをしているのである。

 出会いなど考えられない状況では、ゲームの方がよっぽど出会いがあるかもしれないと、何処かで思うのかもしれない。

 私が、学生の頃は、ゲームウォッチなどという暇つぶしがあったが、インターネットにつながって居ないので、すぎ飽きてします。その為、私は、よく本を読んでいた。

 空気がきれいな街で、団体行動している時も、一人、本を読んで、バスから見知らぬ風景を見ていた。見果てぬ人を探しているのである。自分探しなど、全く嘘。周りからはそう思われているかもしれないが、そんなことない。自分を性的に満たしてくれる人を探しているのである。そんな人は居ないのであるが、それでも、その探そうという意思はあったに違いない。

 宗教も、実は、それに似ている。自分探しなどといっても、所詮、性的なものが多いのである。

 性的に満たしてくれるのは、単に肉体的交わりなどではない。「かをり」が大事なのである。

 そういう「かをり」する宗教にはまる人ははまるのである。

 なので、一回はまると、抜け出せない。

 世の中の事をよくしよう、自分をよくしようと思っている人は多いと思うが、それは、見果てぬ性的対象が、喜ぶ世界を作りたいと思っているだけである。ここに、人間が如何に利己的であって、利己的でありながら、見えない対象の為に、生きていくという利他的側面も含むのである。

 愛というのは、社会を作る原動力である。もちろん、性的な愛が一番強く出てくる。普通の映画やドラマは、人間愛やら、動物愛やら、そういうものは、善で、性欲は、慎むべきものとされるが、確かにそうであると思うが、社会が構成される原動力は、性欲が一番強いし、多分、それしかないと私は思っている。

 その為、社会は、非常に利己的なものである。金、金、金というのもここから出てくるのである。金さえあれば、性欲を満たせると考える。その為、他人を蹴落とすことなど、なんでもないのである。

 以前、統合失調の生徒を教えたことがある。自分は、とてもかわいそうで、気にかけてほしいと、喚き散らすのである(実際に大声を挙げるわけでないが)。私は、社会のゴミと思って接していた。自分、自分と、迷惑極まりない存在。ずっと、病院にいてほしいので、出てくる。実際、多くの方が接したことのない位の人物であった。

 それは、女でした。日に日に、肌はただれ、この手、生徒結構見てきたが、顔が中央に寄ってきます。眉間にしわが増えるを超えて、顔面が中央に寄るのです。キリスト教では、悪魔に取りつかれたという感じで表現されるのでしょうが、多分、そういう表情になるのでしょう。

 さて、この女、そこに通う「イケ面」の生徒の話をし始めたことがありました。

 「取りつかれているぶんざいで、性的な事なんか考えるんだ」と心の中で、行っていた気がします。

 もう少し、自分の事を「病院で治せば」と声を大にして言いたい気持ちを抑えて。

 このように、こういった、自称「繊細」な、糞も、性欲に動かされるのである。こういうのが、アイドルにはまりすぎたり、するのでしょう。はしたないなんて、もう、ないんです。

 こいつに代表されるのが、「社会」です。自己を押し通す社会。

 普通の人間は、そういう社会を望むのでしょうか?望むはずないです。しかし、厳然と存在する社会のゴミは、まさに世の中、性欲でできているからといっても過言ではありません。

 私が、社会の風紀を乱すものをまじかに見たのは、こんな感じですが、強制わいせつなどを平気で行う人間もいるわけで、これこそ社会の成り立ちが分かるはずです。隠しても隠しきれないのである。

 逆に、性欲は、性的対象の相手を完全に美化します。自分も犠牲にします。その為、人は、人に優しくなれる側面を持ちます。

 誰にも優しい人は、そうすることで、本当に自分の性的対象にも伝わる考えるからです。意外と打算的には見えるでしょうが、よくある話です。

 そのため、社会が、自己為、他人の為という2側面があるのは、人間に性欲というものが引きがねになって、社会に良い、悪いも生まれるのであろうと思う。

 宇宙に興味を持つ者もいる。宇宙で、その者が求める性的対象がいるのかも知れないと、何処かで思っているからである。

 旅、お酒。別に普通の事です。欲求不満であって、人に喚き散らすよりマシではないか?