あの日から10年

まだ、東日本大震災について、しっかりとした言葉で自分の考えていることをまとめられないのはどうしてなのかと

何年も自問自答していました

だから3月11日当日にはいつも書けなくて

今この瞬間でさえ、どういうわけか指をなかなか動かせません


まずは被災なさったかたがたや地域に向けてのご挨拶を先にすべきだとわかっていながらも

そう思うほど何も書けなくなっていたのです


その理由を考え続けて少しわかってきました

震災の前の年からの、私の中での弔いがまだ完了していないからだと気づきました


あの頃、私も私なりに闘っていて

その気持ちが自分の中で真に昇華できるまでは、

何をどのようにして述べるにしても

ひとさまに向けた言葉が自分の中でばらばらになってしまいそうで申し訳ないと思っていました

乗り越えていないものを抱えたままでは

申し訳なさで言葉がばらばらにほどけてしまう、

ずっとこんな具合だったのです


だからごめんなさい、順番を変えて述べさせて頂きますことをお許し下さい

何年かかっても必ず、いつか、

決してほどけない形で贈らせて下さい、

申し訳ありません


じつは

その前の年の6月14日に母が亡くなったばかりでした

まるで当てつけのように19時11分に亡くなり

それはつまり午後7時11分なので

亡くなる時間まで意地悪なひとだったなと思います

あちこちに転移した癌の闘病の末でした

私は介護疲れや看取りの疲れ、

そして当時はまだ病身の父の介護も残っていました


母が亡くなって一番つらかったことは、私が受けてきた心理的虐待の恨みを晴らせなかったこと

強制された介護を、さんざん八つ当たりされながらおこなう日々にも

恨みを忘れたふりで、生きているうちに和解できればと思って努力をしたのに

本当の本当に最期も、あの人は私を自分の子として受け入れてはくれなかった、

どれほど女の子を産みたくなかったか、

私のことが憎かったか

そんなことをまざまざと思い知らされるだけの看取りだったのです


母からのいびりと主人からのモラハラの板ばさみが続いた時も、母は

「子どもが親を守るのは当たり前だ!」と私を怒鳴りつけ、私の頬を平手打ちし、

私のまとめていた髪をわざわざつまんで崩してそこを引きちぎり

その直後に気持ちの悪い笑みを浮かべてはしゃぎ、笑っていました

まだまだそんな例はあり、

ほとほと嫌になり果ててこちらがまいってしまい

とにかく母から距離を置きたいと女性の看護師さんに話したところ

看護師さんがお医者さんに伝えて下さり

母の癌は脳にも転移していたため判断力に不具合が生じて攻撃性が増す場合もある、

とお医者さんは説明として言っていたけど


冗談じゃない、あのひとは元からそんな女性だ


失礼で傲慢で妬み深いあのひとと血がつながっているのが恥ずかしくて

絶対に似ないようにと、

私は中学生頃からいろんな努力をした

言葉使いも立居振る舞いも心がけも

決してあのひとから教えてもらったものではない

私が周りを見て必死で身につけていったものだ

顔が似ていないと母にいじめられるくらいなら、

中身も他人になってやろうと思っていた

10代の頃から、

いつかあいつの手の届かないところで人生をやり直せるようになりたいと思っていた


しまってあった母子手帳とへその緒は偽物なんじゃないかと

タンスから取り出して見たことが何度もあった

知らない医師にお金を払って偽造してもらったんじゃないかと疑いたくなるくらい

私の親は意地悪だった

でも周りにはそんなことを打ち明けられないから

友だちや知り合いとは表面的なかかわりしかできなかった

表面だけは上手い子どもだったが本心を誰にも話せなくて、でも

そんな様子を隠して暮らした、寂しかった


話を戻して震災頃の時代


親子間のトラウマにがんじがらめになっていた時期だったり、眠れば必ず妙な夢を見ていたので

人が亡くなるとか、そういう事柄にとても敏感になっていました

6月に母が亡くなり、あれは8月頃だったでしょうか

知らない駅に着く知らない電車に乗っている夢をみました

たくさんの人がうなだれて電車を降りてゆき、夢なので突然視界が変わって、

どういうわけか多くの水がある湖だか海だかのほとりに私は居て、

そこに流れ着く人々を見ていました

意味がわからないのです


年が明けて3月、

その頃はもう変わった夢を見るのがいやで眠るのが怖くなっている頃でした

ちょうど父が病状の悪化で入院がちになり、私は当時の住所の東京へ帰れる日が少しずつ出て

2月末から帰ってきていましたが、帰れば主人から暴言を吐かれて存在を激しく否定されるばかりですべてに疲れ

当時住んでいたマンションの屋上の壁から何度も身を乗り出して、下のバス通りを眺めては、いつ下に向かって飛べるだろうと思っている自分がいました

その壁を超えたら自由になれる気がしていました


変わった夢というのは、なんというか死後の世界の暮らしのような夢で、眠るたびに見てそれが2014年頃まで続いたと思います

結構いろいろなことを知ったような気もするのでそれはまたいつか書かせて頂きたいです


3月2日頃に見たのは

知らない部屋に母がいて、オレンジ色の藁半紙でできている、印刷の粗い小冊子のようなものを私が眺めている夢でした

霊界にも雑誌があるらしい、そしてたぶんそこでの生活に準じた何かで

私が読んで妙に覚えているのが

『この季節は気温が上がりますから仏壇には水を多めにおそなえしましょう』という一文でした

仏壇や神社仏閣や宗教関連に全く関心のない母だったので、

そもそもそこからその雑誌が不思議だったことと

考えても意味がわからない、そのわからなさでよく覚えています


思えば震災の数日前に

あまりよく知らないはずの歌が夢の中で流れていました

とはいえ私はその曲のリアルタイム世代ではなく、

介護生活に入るより前に何かのテレビ番組の懐メロ特集か何かで聴いた記憶なのだと思います

それは複数の女性がパジャマを着て歌っているもので、眠る前の設定の演出や歌だとしたらなぜあんなに寂しげな歌詞なのだろうと不思議に感じて覚えていました

普段は音自体の印象で記憶していて、

すぐには歌詞を聴き取れない私なのにです


それをいきなり夢で見て心がざわざわと落ち着かない感覚がありました

時をとめてほしいという漠然とした感覚

はっきりとはわからないのだけれど、命がちぎれるかのような、切羽詰まったつらさにとらわれた日をすごしました


震災当日の明け方、リビングの床で眠っていた私は

ガス漏れのようなにおいと、「(私の本名)ちゃーん」と呼ぶ母の声で目が覚めました

ガスヒーターの消し忘れか、換気が不十分か、

ここは都内だし母は夏に亡くなったよな、と

ハッとなって起きて家中を確かめて回ったのに何もなく、

夕方16時から美容院だなと予約を確かめた記憶があります


その時には本当に意味がわからないこと、というものがあります

震災当日の私は16時からのカットのために支度をして、しかし

当時行っていた美容院は割と近かったけれど、

その日どうしてもスッと動けないというか、理由なくもやもやだらだらとして

15時45分に家を出る予定がなんとなく座ったままになっていて

いつも見る報道番組へとテレビの画面が切り替わる少し前、

行かなくてはと立ち上がった時に揺れました

それが15時46分、予定通りに家を出ていれば間違いなくエレベーターに閉じ込められていた

その後何日も動かないエレベーターに


ずいぶんつらい思いをしている割に意外と生きていたなと自分でも思うもので

何もかもの意味を知ったのは何年も後になってからです

震災を扱う報道には当時、動かなくなった時計がよく映し出されていました


ところで歌の話

何年も後になって私は偶然にも同じタイトルの全くべつの曲を拝聴するという経験をして、

しかしその曲は全くべつのフィーリングで、いま思えば本当にありがたかったです

このページに書かせて頂いた一連の記憶が洗われるというのか、

苦しみの闇が喜びの光で洗われるというか、そのような経験をさせて頂けたからです

偶然の多さに驚くことがたくさんありますね


拝聴当時はさすがにこの内容を感想の中で打ち明けることができず、

今日この瞬間でさえも、これをお書きしても本当に大丈夫だったのだろうかとまだ逡巡しています

今はまだ具体的にはお書きできませんが、そのタイミングがいつか心の中でととのったら、

お礼を申させて下さいませね


しかし、もしかしたら

なぜだかどういう偶然だかで

既に伝わっているかもしれませんね


どこまで明かしてよいかがどうしても何年もわからなくて、

しかしこれらを打ち明けなければ、震災のことを書けず、

被災されたかたがたへご挨拶を申し上げる段階にまで自分がたどり着けなかったのです

ごめんなさい、私事など、ごめんなさい


続きます、

次から私事ではない内容となります