人を殺すことはだめだと言うのが常識です。
その理由をブログだったか本だったかで言われていたのが納得でした。
それは,
 「人を殺したら、その人の全ての可能性を奪ってしまうから。」
でした。

つまり生きていたら何らかの選択肢があるわけですが、死ぬとその選択肢が0になります。
一方、本『神との対話③』では、死も本人の自由意志とされています。
添加物まみれの食べ物を食べ続け、病気になって自分を死に追いやるのは○で、本人が死を選らんでいるので手助けしたら、それは罪だという世の中に一石を投じています。

ただ、本人が死を望んでいるからと言って、死よりも過酷な殺し方をするのはいかがなものかと思います。(それなら本人の望む死を助けてあげる方がまだましです。)

また、本人の意思さえあれば 「死」を良しとする風潮なら、本人が死にたくなるような状況に追いやり、「死んだのは本人の意思だから」というしょーもない人も現れるのでここらは慎重に考えないだめだと思います。


ここで2つの記事をのせます。
1つは以前私が受けた、saintarrowさんのカルマの解放ワークの私の体験談。
私にとって決して安いお値段ではありませんでしたが、受けて良かったです。
もう一つは、上記でも出てきた 本『神との対話③』の引用。
この2つから、各々の「死」について考えて頂ければと思います。


★saintarrow 「カルマの解消ワーク」:
http://blockrelease.net/special/#s01

‐‐‐‐‐ココカラ‐‐‐‐‐

カルマの解消ワークを受けるに当たり、そう言えば、先祖に介錯人(切腹の際首を切る人)がいたなあと
ネットで介錯人について調べてみました。
その先祖は腕の良い介錯人だったのが、ある日それを疎まれ刀を変えられ失敗し自害したそうです。

ネットを見ているとなぜか涙があふれてきました。
そして、心の中に「どんな事情であれ、人の意思に反して殺してはならない。」
「失敗した人の苦しみを思うとつらい。」という苦しい感情が出てきました。
とりあえずその感情を受け止め慰めました。泣き終わった後はすっきりしました。ありがとうございました。

‐‐‐‐‐ココマデ‐‐‐‐‐




★本『神との対話③』

‐‐‐‐‐ココカラ‐‐‐‐‐

・たとえば自殺についても、地球上の人びとの大半はいま、自殺は「オーケーじゃない」と想像している。同じく多くの人は、自殺を助ける事も「オーケーじゃない」とまだ主張している。
どちらの場合も、「法律に反する」と言われる

・もっと長期的に生命を終わらせる行動は、結果は同じでも違法ではない。だから銃で自殺すれば、家屋には保険金が支払われない。だが、タバコで死ねば、保険金は支払われる。医師が自殺を幇助すれば殺人だと言われるが、タバコ会社なら商売ですむ。

・あなたがたの場合は、単に時間の問題らしいね。自己破壊が「正しいか、正しくないか」は、その行為を誰がしたか、そしてどれほど完了したかによって決まるらしい。死が早ければ早いほど、「正しくない」度合いも増すのだね。死がゆっくりであれば、「オーケー」の方に近づく。
ところが、何がほんとうに人道的かということになると、社会は正反対の結論を出す。「人道的」という言葉の定義からすれば、死は短いほど良いはずだ。ところが、人道的な行為をしようとする者は罰せされ、狂気じみたことをする者は褒章を受ける。際限のない苦しみを神が求めていると考えるのも、また、苦しみを迅速に人道的に終わられるのは「正しくない」と考えるのも、狂気のさただ

・あなたがたの一部がどれだけ偽善的か、教えてあげようか。例えば戦争や死刑など、相手の死を望むちゃんとした充分な理由があれば、相手の意思に反して人を殺すことはかまない、と言う。あるいは、中絶をしているクリニックの駐車場で、そこの医師を殺すとかね。だが、自分の死を望むちゃんとした充分な理由があるという者がいても、彼らの死を助けてはやらない。それは「自殺幇助」で、悪いことだと言う!


‐‐‐‐‐ココマデ‐‐‐‐‐