真に美しい世界

 

みなさまお元気ですか。

新 正人です。

 

お読みいただきありがとうございます。

今日は真に美しい世界について書きます。

 

【美しい世界のイメージ】

美しい世界ってどんなイメージをされますか。

可憐な花が密やかに咲くことでしょうか。

一面の花に圧倒されることでしょうか。

 

宝石がキラキラと鮮やかに輝くことでしょうか。

自然があふれるのどかな光景を見ることでしょうか。

雪の結晶のような調和のとれた幾何学的模様を見ることでしょうか。

 

どんな時でも母が子どものことを思いやっている心情のことでしょうか。

友人、恋人、夫婦や親子などが相手を慈しみ、いたわり、愛情に満たされている世界のことでしょうか。

 

美しい世界は、理屈ではありませんね。

 

【真に美しい世界とは】

では、更に「真に美しい」とはいったいどんな状況なのでしょうか。

ここでの「真に」というのは「美しい」がもっと深いということなのでしょうか。

 

【二つに分けない】

ここでの「真に」とは今までの思考では考えられない世界のことを指しています。

 

「真に美しい」とは二つに分けたとらえ方ではない、二元相対ではないということなのです。

 

「真に美しい」とは二つに分かれていない状態であるため、実は「すべてが美しい」ということと同じ意味になるのです。

 

私たちは二元相対があたりまえと思っていますので、二元相対を超える、一元(ワンネス)非二元(ノンデュアリティ)があることを、よくわかっていないのです。

 

だから、私たちは、「これは美しい」、「これは美しくない」との思いに立ち、「美しくない」状態から少しでも「美しい」状態にしたいと思ってしまいます。

 

とても「すべてが美しいなんて言えない」と思われませんでしょうか。

 

「美しい」ということを「黄金」で表現された方がありました。

 

道端のがれきの中から黄金を拾い出すというよりも、むしろがれきそのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である。」詩人 高村光太郎

 

がれきそのものが黄金であり、美しいのです。

つまりあらゆるものが黄金であり美しいと見破る。

 

かつてこの言葉に出会ったときは、どうしてそう思えるのか全くわかりませんでしたが、そういう風に見える人がいることが灯りだったことを思い出します。

今ではなるほどなるほど絶妙な表現だと感嘆させていただいております。

 

【二元相対を超える】

では、二元相対を超えるとはどういうことでしょうか。

二元相対というのは、ものごとが起きたとき、「認識、判断、評価という思考」から生まれます。

 

「認識、判断、評価という思考」を超えるとは、言葉でいうと一元絶対ということです。

 

二元相対とは、分別のことであり、ものごとすべてを概念として、言葉としてとらえ、比較している状態のことです。

 

普通に生きてきたら誰でも二元相対の中で生きています。

二元相対が普通、常識でありそれを疑うことなど考えられません。

 

一元絶対とは、概念や言葉の前の世界のことで、区分や分別がない状態のことです。

とらわれがない状態であり、すべて水のように流れていく世界です。

これは二元相対の思考からはわかりません。

 

相対と絶対とは、次元が違います。相対のものをいくつ積み上げても絶対にはならないのです。

 

例えば、数はどれだけ足しても有限であり、決して無限にはならないようなものです。

 

数があるという有限と数がないという無限は、次元が違い、無限は数という土俵には立っていないのです。

無限には数の概念、区分がなくなってしまうのです。

 

数は区分できますが、無限は区分できません。絶対とは無限でありゼロ(無)なのです。

1と2と3は普通には区分されますが、無限においては、1、2、3・・・の区分は消えてしまいます。

 

次元が違うと思われませんか。

概念と概念がないという違いなのです。

 

分離した境界が二元、分離していない境界が一元、非二元です。

 

つまり「美しい」「美しくない」という区分の思考は二元で、「真に美しい」という区分のない状態が一元、非二元ということなのです。

 

「真に美しい」というのは「真に美しくない」の反対の表現ではありません。

「真に美しい」とは本当は言葉がない世界です。

 

それでも表現しないと伝わらないので、あえて「真に美しい」という言葉で表現しています。

 

「真に美しい世界」とは一元、非二元で「左脳の言葉が思考となる前の世界」であり、「右脳をとおしての言葉を超えた分かれていない世界」のことなのです。

 

もちろん分かれている世界と分かれていない世界があるということではありません。

 

「すべてが分かれていないことが真に美しい世界」という受け取り方なのです。

 

ただただ「真に美しい世界」が「あるがまま」、「そのまま」として起きているのです。

「あるがまま」「そのまま」が「真に美しい」のです。

 

とらわれのない、

コントロールすることのない、

所有することのない、

固有の私がいない、

時間もない、

場所もない、

不足のない、

むなしさのない、

静かな、

静寂な、

静謐な、

輝きのある、

常に満ちている、

いつまでもその状態を喜べる、

老い・病気・死ですらそのまま受け取れる、

植物、動物、人間など世界のどんな状態でもそのまま受け取れる

今まで想像していなかった状態。

 

生も死もない状態。

美しいも美しくないも消えた状態。

ただただ「真に美しい」状態がすでにここに起きているのです。

 

あらゆることを、あらゆる現象を、評価判断という色眼鏡ではなく、直に見ている、直に感じるところに世界は広がっています。

 

私たちは思考という色眼鏡を通してしまうのです。

これは生まれてから身に着けた思考、言葉、アイデンティティ、信念、観念、知識、常識という色眼鏡で見るため、評価判断により二元で考え、真の美しさを見ていないのです。

 

どんなに思考を凝らして真の美しさを味わおうとしても、思考でとらえに行く限りそれは無理なのです。

 

【どうすれば「真の美しさ」がわかるのか】

ではどうすれば「真の美しさ」がわかるのでしょうか。

 

このような問いが起きますね。

ここで大事なことは、「どうすればわかるのでしょうか」という思考に、「前提がある」ことに気がつくことです。

私たちは思考に前提があることに気がついていません。

 

なんとかすれば「わかる」のではないかという前提です。

 

その前提は本当でしょうか?

 

真の美しさとは「わかるものではない」のです。

「わかる」「わからない」というのは二元のことなのです。

 

「わかる」「わからない」が必要なくなることなのです。

「わかる」「わからない」が消滅することなのです。

 

「わからないままでいい」ということなのです。

もし、「わからないままでいい」と言ったらどうされますか。

 

それじゃあ意味がない、と思われますか。

 

それは困る、「真の美しさ」がわからないから、わかるまで探求したいと思われますか。

 

「真の美しさ」は「わかる世界ではない」のです。

つまり知識で習得するという私たちの常識に当てはめてみている限り、「わかる世界ではない」と言われても、なるほどそれでよかったとはならないのです。

 

じゃあどうすればいいのでしょうか。

この問いが起こると、「どうすればいいのか」という苦しみのループから脱出することができません。

 

「どうすればいいか」ということが起こっている状況を外から見てください。

「どうすればいいか」の思考にハマっていると見えませんが、「どうすればいいか」ということが起こっている状況を外からよく見てみると気づくことがあるかもしれません。

 

【今起きていることを俯瞰する】

今起きていることの構造を理解することが大事なのです。

 

今起きていることをなんとかしようとするのではなく、今どうしてこのことが起きているかを俯瞰的に知り、その構造、位置づけを理解することが大事なのです。

 

「知らないことを知る」ことで美しさがわかる、苦しまない状況がわかるのではなく、「知らないと思っているのは何か」、「知らないと思っているとはどういうことか」と俯瞰的に確認することが大事なのです。

 

「思考で知る」ということは、「概念として知識を獲得する」ことですが、「俯瞰する」ということは、「全体をそのまま観る」ことであり、「区分、分離という思考を手放す」ことなのです。

 

私たちは、幼少から知識を獲得すること、経験を獲得することがとても大事なこととして生きてきました。

だから、思考を手放すことなどなかなかできないのです。

 

でも、全体がドラマとして起きている、一体として起きていると観ると、区分、分離の思考は自動的に消えていきます。

 

「思考はわたしではなかった」と。

「俯瞰で知らされる全体、一元、非二元がわたしである」と。

 

そこに、「真の美しさ」があった。

思考でイメージしていた美しさとは違う、あらゆるもの、あらゆることをイメージしていた区分が溶ける、消えることで現れる世界が「真の美しさ」なのです。

 

「真の美しさ」はどこにあるのでしょうか。

 

それは、「今」、「ここ」、「すで」になのです。

いつかではなく、「今」です。

どこかにあるのではなく、「ここ」です。

これから変わるのではなく、もう「すでに」なのです。

 

このことを禅では「即今」、「当処」、「自己」で表現しているようです。

「即今」とはただ今。

「当処」とはここ。

「自己」とは、全体、ひとつという自己。

 

全体がひとつということは、「あなた」と「わたし」に区分された「わたし」としての自己ではないのです。

 

「あなた」と「わたし」という区分が溶けるのです。

 

「真に美しい世界」とは、いまここですでにその状態なのです。

 

これからなるのではないのです。

なることなどできません。

もうすでにその状態なのですから。

その状態に気づくことだけなのです。

 

どうしたら、美しい世界を味わえるかの疑問は、もうすでに、真に美しい故郷に帰っていることに気づくことで消えるのです。

 

わたしも知りませんでした。

二元を超える境遇を知り、味わえて初めて、これまでが思考優位であり二元だったんだと知りました。

そして、一元(ワンネス)という「あるがまま、そのまま」のすごさに、ただただ左脳中心の思考の頭がさがり、右脳としての「あるがまま、そのまま」が普通の状態であることが本来の私であったことに驚きました。

不思議にもいつも世界が真に美しく、不安苦しみが消えてゆき、いつも感謝しかない状態になってしまいます。

 

みなさまの苦しみが少しでも消え、「真に美しい世界」をともに味わえることを心より願っております。

いま、ここで、いつでもあなたと一緒です。

 

真の美しさをあなたとともに。

 

親愛なるあなたへ

 

新 正人