近衛帝の病状悪化

 

 久寿元年(1154年)。近衛帝の病状は悪化の一途をたどっていました。

 生母の美福門院は、名だたる高僧を集め、一心不乱に祈祷をします。

 

  一方、鳥羽院はすべては自分が崇徳院に行った無情な仕打ちの報いなのではないかと思い悩んでいました。

 

 崇徳院が譲位にあたって我が子重仁親王ではなく、異母弟の体仁親王(近衛帝)に位を譲ったのは、養子である体仁親王が帝位につけば、帝の父として院政を行うことが出来ると、美福門院に説得されたからでした。

 

 しかし、即位の宣命には体仁親王は、崇徳院の「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれており、崇徳院は政の場から締め出されてしまいます。

 

すべては美福門院と、関白・藤原忠通の企みからで、崇徳院は騙し討ちのような形で帝位を奪われたのです。恨んでいても当然です。

 

 しかし、いつも思うんだけどこの皇太弟の宣命を見てショックを受けた時のダイナミックリアクションとか見てると崇徳院と鳥羽院ってかなりそっくりだと思うんだけどな~。

 

 

  皇位後継者をめぐる思惑

 

 近衛帝には二人の后がいましたが、そのどちらにもいまだ皇子はいません。

 

 このまま亡くなるようなことがあれば次の帝位はどうなるのか……。

 人々は水面下でそれぞれの思惑を巡らせ始めます。

 

 最有力候補は、崇徳院の第一皇子である重仁親王です。

 

  

 

 崇徳院は清盛を呼び、平氏に後見を頼みますが清盛は、自分たち平氏は鳥羽院に忠誠を誓っているからといって断ります。

 

 憤り落胆する崇徳院。それも当然の話で、重仁親王って宗子ママ(池禅尼)が乳母なんですよね。

 

 

 忠盛パパが在世中のことで、今は宗子さんも出家してしまっているので現役乳母ではないんでしょうが、それでも『鎌倉殿』の比企尼と頼朝の関係を見ても、乳母がその一族をあげて養い君を後見するのはこの当時当然のことでした。

 

 この場面で清盛は、「いや、鳥羽院派のうちにそんな言われても……」みたいな感じでしたが、宗子ママとの関係を思うとむしろ断る方がおかしいんですねあせる

 

 本作の中での清盛と崇徳院は、どちらも白河院を父に持つ異母兄弟です。

 

 自分にはどうしようもない、生まれながらに背負わされた苦しみを清盛となら分かち合えるかもしれない、と思ってきた崇徳院は激しく落胆します。

 

 平氏一門のなかでも、今後の方針については様々な意見が出ます。

 

 あくまで鳥羽院に忠義を尽くすべき。そのためには要らぬ疑いを招かぬよう崇徳院側とは距離を置くべきだという意見。

 

 しかし、近衛帝の容態は明日をも知れず跡継ぎとなる男皇子もいない。

 

 万が一のことがあれば、重仁親王が皇位につく可能性は高く、そうなった時に崇徳院は、自分の側につかなかったものに対し、報復を行うかもしれない。

 

 だから今のうちに崇徳院にもある程度、接近しておいた方がよいのでは、という意見。

 

 どちらの意見ももっともでなかなか結論が出ません。

 

 皆の意見を一通り聞いたあと、清盛は、

 

「法皇さま、上皇さまに仲良うしていただく。お二人の間の溝を埋めぬ限り、世の乱れは正せぬ。我ら平氏はその溝を埋めるためにはたらく」

 

と宣言します。

 

 

  悪左府の増長

 

 頼長は、従来の潔癖で生真面目な性格にますます磨きがかかり、盗賊や悪僧を厳しく取り締まるだけでなく、貴族たちの怠惰や失策にも容赦なく処罰を与えて、人々の恨みをかっていました。

 

 

 優秀で勤勉な頼長は、先祖代々の家柄にあぐらをかいて努力をせず、利ばかり貪ろうとしている怠惰で無能な者たちに我慢が出来ませんでした。

 

 

 父の忠実は「少々、やり過ぎではないか?」と忠告しますが頼長は聞き入れません。邪魔をするなら父上とて容赦しないと言い放ちます。

 

その頃、為義はやっと就いた検非違使の職を解かれてしまっていました。

 

鎮西にいる八男・為朝が鳥羽院の所領を荒らしたのが原因です。

 

 

為義が頼れるのは、ますます摂関家──頼長のみとなっていきます。

 

一方、頼長の兄、関白・忠通は焦っていました。

 

 

かつて近衛帝の即位にあたり、忠通は美福門院とはかって崇徳院を騙し討ちにし、院政への道を閉ざしました。

 

重仁親王が即位し、崇徳院が治天の君となれば、恨みをかった自分は冷遇されるのは目に見えています。

 

忠通は慌てて信西のもとへ駆けつけて今後について相談しようとしますが、

 

「帝がご存命中にもうそのような話をなさるなど不謹慎極まりない」

 

と窘められてしまいます。

 

 

  青墓にて

 

 信西が邸に帰ると妻の朝子が慌てています。

 突然、訪ねてきた雅仁親王が美濃の青墓に行くと言い出したというのです。

 

「なりませぬ! 今がどういう時かお分かりなのですか!!」

 

 信西は止めますが、雅仁は聞く耳をもたず、朝子を供に連れて出発してしまいます。

 

 

青墓で、雅仁はひとりの白拍子と出会います。

 

 

遊びをせんとや 生まれけむ たわむれせんとや 生まれけむ

遊ぶ子どもの声聴けば 我が身さえこそ ゆるがるれ

 

乙前(おとまえ)というその白拍子の澄んだ歌声に、雅仁は惹きつけられます。

 

その白拍子は、かつて白河院の寵姫だった祇園の女御でした。

院が崩御したあと、故郷の青墓に戻って暮らしていたのです。

 

乙前の歌声に魅せられたように雅仁は、これまで誰にも言ったことのなかった胸の内を語り始めます。

 

「この歌のごとき男が都におる。重き宿命を背負いながら、いつも軽やかに面白う生きておる男が」

 

 乙前にはそれが誰のことなのかすぐに分かりました。

 

「この天下の一大事に上皇さまや、法皇さまさえもあの男を頼っておる。それにひきかえ私はどうだ。誰も私を見る者はおらぬ。……声の枯れるほど歌うておっても、私は要らざる者。親にとっても、兄弟にとっても、生まれてこずとも何の障りもなかったものなのじゃ」

 

 登場以来はじめて、雅仁親王の心中が語られる場面です。

 

 奇妙な言動を繰り返し、常軌を逸した熱心さで今様に打ち込むのは、彼なりの「自分はここにいる!」という叫びだったんですねぐすん

 

 乙前は静かに微笑みます。

 

「声を枯らして歌われるは、あなた様のなかになにか得体の知れぬ力が漲っているからにござりましょう。ただ、あなた様はその力のやり場を見つけられぬだけ。

 いつかあなた様の内から何かが溢れてくる。それはきっと……世をおおいに動かすものでござりましょう」

 

「まことか?……まことか、乙前」

 

 縋りつくように尋ねる雅仁。

 

 

 乙前が頷くと、雅仁は張りつめていた糸が切れたように彼女の膝に崩れ落ちます。

 それは彼が生まれてからずっと抱えてきた苦悩から解き放たれた瞬間でした。

 

 子どものように眠りに落ちた雅仁を膝に抱いたまま、乙前は静かに歌い続けます。

 

 雅仁親王の心のなかの風景かと思うほど、幻想的で不思議な雰囲気の場面です。

 

 

  近衛帝、崩御

 

 久寿2年(1155年)7月23日。

 

 長く患っていた近衛帝がついに崩御します。

 享年17歳。

 

 悲歎に暮れる美福門院をよそに、宮廷内は次の帝位をめぐって議論が巻き起こります。

 

 最有力候補は、崇徳院の第一皇子、重仁親王。

 

 近衛帝の早すぎる死は、自分が崇徳院を虐げた報いなのではないかと気弱になっている鳥羽法皇は、重仁親王を即位させるどころか、崇徳院をもう一度復位させても構わないとまで言いますが、信西は、

 

「今さら詫びたところで上皇さまがお許しになるはずもなく、法皇さまにつく者と上皇さまにつく者、国が大きく二つに分かれましょう。天下大乱となるは必定にございます!」

 

と新しい帝には、あくまで鳥羽法皇の意のままになる人物をつけるべきだと主張します。

 

 

そして、一夜が明け、明らかになったのは誰もが予想だにしなかった驚きの事実でした。

 

鳥羽法皇の第四皇子──雅仁親王が、新帝として即位することが発表されたのです。

 

知らせを聞いた崇徳院は驚愕し、再び絶望の淵に突き落とされます。

 

崇徳院にとってそれは、鳥羽法皇から突きつけられた二度目の──そして決定的な拒絶でした。

 

鳥羽法皇が抱えている悔恨とは関わりなく、二人の間にあった亀裂はどうやっても埋めようがないほど、深く大きなものになってしまいました。

 

 

  まとめ・感想

 

 今年の大河、鎌倉殿ではありとあらゆる災難の源として、

 

「全部、大泉(頼朝)のせい」

 

 という流行語が爆誕しておりますが、『清盛』のこのあたりを見直してみると、うーん……今後の悲劇の源は、

 

「だいたい、信西のせい」

 と言っちゃってもいいんじゃないでしょうか( ̄▽ ̄;)

 

 初見の時はそこまで印象に残ってなかったんですが、今見るとなんだよ、信西。この頃から野心メラメラじゃーん炎

 

 自分の思うままになる人間を帝王にたてて、その陰で自分の学識、才能をフルに使って国政をやろうっていう意気込みは分かるんですが、そもそも、あなたこれまで雅仁さまのことを意のままに出来てたことってありましたっけ?

 

 

 いっつもこんな感じで全然手におえてなかったじゃん!!

 何故に帝になった途端に、自分の思うままの傀儡王になってくれると思えるのか……。

 

 鳥羽法皇と信西が、雅仁親王に白羽の矢を立てたのは、彼がこれまで帝位や政などに微塵も興味を示したことがなかったからでした。

 

 が、今回、青墓で乙前と出逢った雅仁親王は初めて自分の本当の気持ちを語ります。

 

 常軌を逸した勢いで今様にのめりこみ、声を枯らすほどに歌い続けたのは、生まれながらにして誰にも顧みられず、誰からも必要とされない自分の存在を、必死に主張する雅仁親王なりのSOSのサインでした。

 

 誰も気づかなかったその声に、乙前は初めて耳を傾け、あなたの中には世の中を大きく動かす力があると言います。

 

あんなに自堕落に生きていたごっしーのやる気スイッチを押した乙前さま、すごい!!

 

 

しかし、おいたわしいのは崇徳院さまです(ノД`)・゜・。

 

この件が崇徳院さまにとって酷なのは、後白河帝のあとはその皇子の守仁王が帝位につくことがすでに決まっていることです。

 

つまり、この時点で重仁親王には完全に即位の可能性は亡くなった。

崇徳院の血筋は、傍流に追いやられることになるのです。

 

左大臣頼長が、妻の喪中で僉議に出席出来なかったことも不運でした。

 

謹直で物事の筋目を何よりも重視する頼長が出席出来ていれば、鳥羽院と信西の傀儡とするためだけのようなこの即位に反対を唱えたに違いありませんから。

 

「喪中なのでご遠慮下さい」と言われた頼長が、「なるほど。理に適うておる」と言って素直に立ち去った場面が印象的でした。

 

頼長は苛烈な性格ですが、決して暴君というわけではなく正義と秩序を重んじているだけなんですね。

 

さて、今回亡くなられた近衛帝ですが、最近、大活躍の北村匠海さんが演じられています。

 

 

しかし、亡くなられてからこんなに次の帝選びが紛糾するなんて近衛帝の御代には東宮が立てられていなかっていうことなんでしょうか?

 

 新帝の即位と同時に東宮が定められることになっているものだと思っていました。

 

 清少納言や紫式部が活躍していた一条天皇は、即位の時点でまだ少年で、当然実子はいなかった為、年上の従兄弟の居貞親王(三条天皇)が東宮位についています。

 

 だから本来だったら、近衛帝の即位と同時に重仁親王が東宮に立てられても良かったわけで、そうならなかった時点で鳥羽法皇サイドとしては崇徳院の血統に皇位を渡すつもりはさらさらなかったってことなのかな~。

 

さて、一回、また一回と保元の乱が近づいて参りました。

 

ドラマとしてはこのあたりから加速度的に面白くなっていくわけですが……見るのがつらくなってくるのもこのあたりから( ;∀;)

 

次回は「鳥羽院の遺言」

 

いよいよ清盛が……そして後白河天皇が世の中の中心に乗り出していきます。