ようこそのお運びで厚く御礼申し上げます
今日は、戦国武将・黒田長政さんにまつわるちょっとイイ話(?)をご紹介させていただこうと思います。
かなり有名なエピソードなので知っている方も多いと思われますが、大河ドラマのなかであまりにも不当な貶められ方をしている長政くんをどうしてもフォローしたくって…
尚、以下にご紹介するお話はあくまで「逸話」ですので史実かどうかは定かではありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
関が原の戦いののち、敗軍の将として捕えられた石田三成を徳川家康は大津城の城門のそばに座らせ、生き晒しにしました。
東軍の側の将たちは、ある者は容赦なく罵声を浴びせ、ある者は冷ややかに蔑みの視線を投げて通り過ぎて行きます。
なかでも、三成のことを一際、憎悪していた福島正則は、三成の姿を見るや、傲然として馬を寄せてきて
「思い上がって無用の乱を起した挙句がそのざまか」
と嘲りの言葉を浴びせました。
逃亡生活の末に捕縛の辱めを受け、憔悴しきっているはずの三成でしたがこれを聞くと、静かに面をあげ、
「おのれがごとき者に我が志が分かるはずもない。目障りである。さっさと立ち去れ」
と言い返しました。
腹を立てた正則が
「この期に及んで何故おまえは切腹もせず、そのような辱めを受けてまで生きておる。
武士としてみっともないとは思わぬのか」
と畳み掛けると、三成は
「英雄たるものは、最後の瞬間まで生を思い、機会を待つものである」
と答えると、
「人々の心の底というものをこの目でよう見た。泉下(あの世)で太閤殿下に報告し奉るゆえ心得ておけ!」
と凛として言い放ちました。
正則もこれには閉口してその場を立ち去ったといいます。
秀吉の親族の一人であり、生前はもっとも可愛がられていた武将の一人である正則にとってそのひと言は急所を射抜かれたように手痛く響いたことでしょう。
長政がやってきたのは、その後のことでした。
長政も、諸将たちによる三成の襲撃事件が企てられた時にはそれに率先して加わったほど彼を忌み嫌っていた武将の一人でした。
豊臣家、子飼いの武将である福島正則、加藤清正らを
「此度の戦は、秀頼さまに弓を引くものでは決してない。
あくまで君側で専横を極める奸賊(三成)を討ち果たすためのものであり、太閤殿下の恩に背くことにはならない」
という理屈で説き伏せて、徳川陣営に引き込んだのも長政ならば、戦の趨勢を決したといわれている小早川秀秋の寝返り工作を行ったのも長政でした。
正則のように口汚い罵声を浴びせる?
それとも後ろめたさが勝って、何も言わずにさっさと通り過ぎる?
長政がとったのはどちらでもありませんでした。
彼は、三成の姿を見るなり馬を下り、
「戦の勝敗は天運とはいえ、五奉行の筆頭と称された貴殿がこのような境涯になろうとは…かえすがえすもご無念であろう」
と労わりの言葉をかけて、自らの羽織を脱いで三成の肩にそっと掛けたのです。
正則の罵声に対しては一歩も退かぬ気概で臨んでいた三成も、この長政の思わぬ優しさには言葉を失い、面を伏せたといわれています。
司馬遼太郎さんはその作品、『関が原』のなかで、この時の長政の行動を
「関が原における長政の最後の策であった」
と書かれています。
この場で三成から面罵を受けて、豊臣家への忘恩行為を暴き立てられ、無用に男を下げるのはつまらない。(まさに、正則がそういう目にあっています)
長政は羽織一枚で三成の口を封じた、というのです。
確かにそうかもしれません。
関が原で、西軍側に与えた損失の大きさを思えば正則よりもこの長政の方がよっぽど上です。
有名な「左手の逸話」のなかでは、徳川家康は長政の手を押しいただき、
「この度の勝利はひとえに甲州殿(長政)のはたらきによるものである。
この功に何事をもって報いるべき」
と言ったといわれていますが、それほどこの戦いのなかで長政が徳川方のために果たした役割は大きかったということです。
そんな長政がこの場で三成に労わりの言葉をかけるのは、やっぱり自己満足の偽善なのかもしれません。
でも、私はこの逸話のなかに黒田長政という人の武将としての心根の爽やかさと温かな人間味を感じずにはいられないのです。
これまでにどんな経緯があれ、確執があれ…。
死力を尽くして戦って敗れた相手が、みじめな姿で地べたに座らされている。
それを見て哀れをおぼえ、世の無常を感じて、労わりの言葉をかけずにはいられない。
そこに私は黒田長政という人の人間的な魅力を感じます。
そして、その労わりを素直に受け入れ、黙って目を伏せた三成の人間性も素敵だなあと思うのです
私だったら
「おいおい、なに他人事みたいに『ご無念であろう』とか言っちゃってんだよ。
こうなったのは、結構な割合でおまえのせいだよ」
とか言っちゃいそうなんですが
さすがに名のある戦国武将は違います
こういった戦国武将特有の鮮やかな価値観や死生観に触れるのも、この時代のドラマや小説を見る楽しみの一つだったりするんですけどね…。
どうして無理矢理、現代寄りの価値観で描こうとするのかなあ…。
『軍師官兵衛』のなかでこの逸話がどのように取り上げられるのか…そもそも、取り上げられるのかどうかも分かりませんが。
「黒田長政」という人物は、こういう素敵な逸話もちゃんとある立派な戦国武将でした…というお話です。
皆さん!どうか『軍師官兵衛』のことはキライになっても、史実の黒田父子のことは嫌いにならないでくださいっ
長政さんの評価を低くしている理由の主たるものである「左手の逸話」「後藤又兵衛、奉公構のお話」についてもまた別記事で触れてみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました