ようこそのお運びで厚く御礼申し上げます
今日は、荒木村重の妻・だしさんについてお話してみたいと思います。
『軍師官兵衛』のなかでは、桐谷美玲さんが、「今楊貴妃」と謳われた戦国の美姫を艶やかに演じられています。
以下、前記事(有岡城の戦い*幽閉された官兵衛 )と重複する部分がありますが、ご了承下さい。
天正6年7月。
だしの夫、荒木村重が主君である織田信長に反旗を翻します。
村重は、再三にわたる信長側からの説得にも拘らず、足利義昭や、石山本願寺の顕如、毛利輝元らと同盟を結び、公然と織田への敵対を表明します。
説得に訪れた黒田官兵衛を幽閉してしまったことはすでに述べた通りです。
殺害ではなく、幽閉したのは、村重の謀反に呼応して織田方を離反し、毛利についた官兵衛の主君・小寺政職に配慮してのことではないか、と言われています。
お紺さんの死に際して、しつこくしつこく、不自然なほどに
「迷ったら官兵衛の言うとおりに」
「官兵衛を頼りにして」
と言わせていたのは、この時のための伏線なのでしょうね。
実際、ドラマを見ている限り、お紺さんがあそこまで官兵衛を無条件に信頼する理由がないと思うのですが。
斎くんのかわりに松寿丸を差し出してくれたことは確かに感謝に値するとは思いますが、お紺さんが官兵衛マンセーだったのは、それより前からだったからなあ。
ええっと話を戻します。
村重は有岡城に篭城し、約一年にわたって信長に対して抗戦を続けます。
このあたりは、さすがその実力を信長に認められ、摂津一国を与えられ、対・石山本願寺戦の指揮官を任されていただけのことはあるといった感じです。
戦が長期戦に及び、期待していた毛利や石山本願寺からの援軍も現れず、兵糧にも不安が見え始めた天正7年(1579年)一月。
村重は、自ら兵を率いて出陣。
信長の嫡男・信忠が陣をおく加茂砦に夜襲をかけます。
加茂砦にいた信忠軍はおよそ三千。
それに対し、村重率いる夜襲部隊は五百ほどだったと言われていて、それを見ても村重の武将として、戦術、用兵に長け、たぐい稀な指揮力、リーダー性、そして勇気を兼ね備えた人だったことが伺えます。
村重は兵を二手に分け、砦の西から火を放って攻めかかり、奇襲に驚いて逃げ出した敵を東側に伏せておいた兵で次々と討ち取りました。
織田軍が近くの砦から援軍が駆けつけたときには、すでに加茂砦は炎上し、村重軍は馬や兵糧を奪って去ったあとでした。
大将・信忠の首こそ無事でしたが、荒木村重の武名は天下に轟きます。
このあたり、藤本有紀さん脚本だったら、信長と村重の関係を萌え萌えな感じに(BL的な意味合いでなく!)盛り上げてくれた気がするんだけどな~(ボソボソ)
村重「…信長。もはや貴様についてゆくことは出来ぬ。俺はこの手で、自ら天下を掴み取る…!」
信長「村重。さすが俺の見込んだ男だ。そうでなくてはな…(不敵な笑み)」
みたいな(何が、はあと♪なんだか…)
しかし戦線はその後、こう着状態に。
そうなると不利なのは篭城している荒木軍です。
戦いが長引く最中、側近であった高山右近、中川清秀らも織田方に寝返り、村重方は次第に追い詰められていきます。
そんな中、事態は驚くべき展開を迎えます。
上記の奇襲から八ヶ月後の天正7年9月2日夜半。
村重はわずかな側近を連れ、『軍師官兵衛』のなかでも後生大事にしていた茶器を抱えて、ひそかに有岡城を脱出。
嫡男・村次がいる尼崎城へ入ってしまったのです。
『阿古』という名の側室を伴っていたとも言われていて…。
それだけ聞くと、
「えーーー!?嫁も子供も敵に囲まれた城に置き去りにして、愛する彼女だけ連れて逃げ出したのーーー!?村重さんサイテーーーー!!」
とか思ってしまいますが、一説によればこの「阿古」さんは村重の身辺を警護する女武者だったとも言われており、単身、城を脱出したのも、再三の要請にも拘らず、援軍の約束をしながらいっこうに兵を差し向けてくれる気配のない毛利に対し、家臣をいくら使者にたてても埒があかないので、
「こうなったら、自分が直接出向いて毛利と交渉するしかない!」
と考えた為で、茶器は、その際の毛利方への手土産ではなかったのか、とも言われています。
田中哲司さんの村重さんだったら、こちらの説をとって欲しいけれど…。
今のところ、追い詰められたあげくの「心神喪失状態」みたいな感じにドラマ内では描かれているので、無理かな~。
なんか、官兵衛がまた
「なぜだ!なぜなんだ、村重どのーーー!!」
とか無駄なテンションでうっとうしく悲痛に叫ぶ姿が今から目に浮ぶわ…。
現時点まででの私の今年の官兵衛の評価=リアクション芸人
デカい声出してるだけで、実際、何ひとつ聞くに値すること言ってないから。
前回放送話での
「この密書で毛利の裏をかき回す(キリッ)」→密書の中身完全スルー
のシーンには、もう馴れたつもりだったけどやっぱり両肩脱臼の勢いで肩透かしをくらいましたわ。
だーかーらー!軍師主役のお話なのに、肝心の「調略」の中身を描かないでどうするのー(泣)
あと左京進兄さんの
「我らは播磨武士!明日にきらめけ!夢にときめけ!!」(←違)
みたいな熱血シーンの直後がいきなり切腹シーンだったのには、もうあまりの扱いのヒドさに涙が滲みそうになりました。
兄さんの魂の安らかなることを…っ!
金子ノブアキさん、本当に心身ともにお疲れさまでした。
この次はもうちょっと、愛のある脚本で他の時代に転生して大河リベンジを果たして下さい。
ええっと…話を戻します。(多いな)
村重の逃亡はしばらくは伏せられていましたが、やがて信長方の知るところとなります。
村重ノ脱出から1か月半後の10月15日。亥の刻。(午後十時頃)
織田軍は有岡城に総攻撃を開始します。
守備堅牢な有岡城でしたが、すでにあるじの村重が不在という状況でとても抗いきれるものではなく…。
10月19日。
村重にかわって留守を預っていた家臣、荒木久左衛門は
「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」
という織田側からの呼びかけに応じて、開城を決意。
『有岡城の戦い』と呼ばれるこの戦いはここで一応の決着をみます。
官兵衛さんが善助くんたちによって救出されたのもこの総攻撃の時ですね。
荒木久左衛門さんは、織田方からの要求を伝えるために、村重のいる尼崎城に向かいます。
しかし、村重はこれを拒否∑(゚Д゚)
一説によれば、この時、尼崎城には毛利や本願寺方の兵たちもおり村重の一存では降伏開城が出来なかったとも言われていますが…。
結果的に、織田方からの「家族と家臣一同の命を助ける」という条件を蹴ったということになります。
『信長公記』では、この報告を聞いた信長は、
このよし聞食及ばれ、不便に思食され候といへども、侫人懲のため、人質御成敗の様子、山崎にて条々仰さる
不憫だけれど。「侫人」(ねいじん。口先が巧みで心が正しくない人のこと)を懲らしめるため、人質らを成敗せよ、と言ったと言われています。
この命を受けて、天正7年12月13日。
まず重臣とその妻子ら122名が磔にかけられ、処刑されました。
それが終ると、500名を超える家臣とその家族らが、農家に押し込められ、生きたまま火を放たれて殺されました。
それと同日同刻。
京都の妙顕寺に移送されていた、村重の一族36名も、寺から引き出されました。
このなかに、当時21歳だった村重の正室だしも含まれていました。
白の死装束の上に艶やかな小袖を羽織った彼女は、村重の娘(生母は他の妻)と一緒に車に乗せられ、京の市中を引き回された末、六条河原に引き出され、処刑されました。
だしは取り乱すこともなく、名のある武将の妻に相応しい毅然とした態度で死に臨んだと言われています。
可憐な桐谷美玲さんが、その最期をどのように演じられるのか…注目です。
ちなみにその後の村重さんは信長方の追捕の手をなんとか逃れて毛利に身を寄せ、信長が本能寺の変で世を去ると、堺に住まいを移し、そこで茶人としての余生を送ります。
天正14年(1586年)5月。堺にて死去。享年52歳。
妻だしの死から遅れること、7年の後のことでした。