最初に、この稿は一切の資料を見ずに記憶に基いて書くことをお断りする。小説の内容などに記憶違いもあるだろうが、それも含めて私にとっては真実だ、控えめに言うなら、事実誤認があっても私個人には今、私の頭の中に広がっている方が大事だ、大切だと考えるからである。

 

私がまだ若いころ、はっきり覚えていないが高校に入学してから二十二歳で大学に入るまでの間のことだと思う、読売新聞に言語哲学者の丸山圭三郎の次のような内容のインタビュー記事が載っていた。「人は誰しも信仰なしに生きることはできない。たとえ一見非宗教的な人でも必ず内心に何らかの信仰を抱いているものだ」若かった頃の私にはいまいち内容がつかめない面もあったが、しかしそれでも強く「それはそうだろうな」と思ったのを覚えている。そして中年になった今、このことを思い出し、より一層強く深く「それはそうだろうな」と考えるのである。

 

さて信仰とは辞書的に説明するなら「非合理的な信念」とでもいえるだろう。そしてそれが個人個人の人格の中核に位していると思われる。それってつまり人間は誰しも妄想を抱いていて妄想に支配されているってことなんじゃないの!?じゃあなぜ世間の多くの人は精神科医にかかったりせず社会生活を送っているかというと、つまりその妄想を他の人達と共有しているために精神的に安定してるから。それに対したった一人で独自の妄想を抱いていると孤立感から精神的に追い詰められて苦しくなってしまうということなんだね。ここからさらに思索を進めるとみんなが変なことを考えているとき、一人だけマトモだと孤独のあまり病んでしまうということも想定される。オウム真理教を信じてる人達ってマトモじゃないじゃん。麻原たちが逮捕される前、オウムを抜けようとして監禁されて拷問されて死んでしまった人もいるんでしょ。そういう人達はマトモになったからオウムを脱退しようとしたんだよ。そしたらマトモじゃない連中に迫害されて、死ぬ前に精神的に病んじゃっていた人もいたんじゃないかなあ。マトモじゃない集団に一人マトモな人がいるとしばしばマトモな方が精神を病むんだよ。

 

しかし今述べたように人間は皆妄想を抱いており完全にマトモな人などあり得ない。程度問題なのだ。私は以前キルケゴールの『現代の批判』の中の「たとえ全世界を敵に回してもびくともしない内面性を個人個人が確立してのちに初めて人と人との結合ということが言えるのであって、そうでないならただ子供同士の結婚のような醜く有害な結果しか生まないだろう」という言葉が大好きであった。この言葉を最初に知った時は「そうだ、そうだ!」と内心快哉を叫んだのを覚えている。しかし今は違う。人と合わせようとする気持ちこそが優しさであるとか惻隠の情であるとかの母体なのであって、全世界を敵に回してもびくともしない人間などがもしいたら、その人は自分の論理のためにすべてを切り捨てることをいとわない冷酷な人間コンピュータでしかないだろう。私は集団の狂気が大嫌いだ。連合赤軍事件とか太平洋戦争中の日本のような集団の狂気のうねりに巻き込まれた時に自分はあくまで平静を保っていたい、そして集団と戦いたいとずっと願ってきた。そしてそういう人達はいた。だが彼らがマトモさを保っていられたのはそれ以前に帰属していた社会で人間的交流があったからだろう。戦中の日本のことで言うなら日本がマトモだったころの記憶があり、さらに少数のマトモな人間同士の交流があったから一部の人は正気を保っていられたのだろう。

 

アイデンティティという言葉がある。広く人口に膾炙しているが「どういう意味?」と他人に訊かれると困る人が実は大半なのではないか?実際心理学辞典などを参照してもシックリと腑に落ちる説明があるわけではない。曖昧に使われている言葉なのだ。なぜアイデンティティという言葉をきちんと説明することが難しいのか?それは実はアイデンティティというものが本質的に仮構・フィクションだからではないか?

 

中二病という言葉がある。反抗期のことと考えて大体間違いないであろう。この病気が癒える時がとりあえずアイデンティティが確立した時といえるが、それは中学三年生ぐらいのことだろう。最上級生だろうがチュウボウにしっかりした内面などあるはずがないではないか。ただ同じクラスの同じ班になったとかあるいは同じ部活だとか言った偶然の機縁でつながった友達同士で相互承認することによってアイデンティティをつかむのだ。もちろんアイデンティティとはその後も時間をかけて生育していくものなのだが、キモは承認である。つまり社会化することによってアイデンティティは成長するのであって一人でいくら本を読んでもそれでアイデンティティが確立されることはない。そしてこの社会化の課程、他人との交流の期間を通して人はその社会の中にある信仰を取り入れる。

 

つまりアイデンティティという空の器には信仰という妄想が入っているのだ。アイデンティティの本質的虚構性と非合理性を注視するとアイデンティティ・クライシスに陥る。当然であろう。青少年が一人きりで本ばかり読んでひたすら理性的に思索なんかするとかえってアイデンティティの形成は阻害される。そのまま中年になったりしたら目も当てられない人生である。

 

さて、作家の森内俊雄に『骨の火』という小説がある。聖書から取られたタイトルなのだそうだ。この小説の主人公はカトリックに入信するのだがそのあとに代父となった人(私は良く知らないけどカトリックの信者には代父という人がいるんだって)から「お前の信仰が本物なら、いや偽物でももう逃げられない」と言われる。そして主人公は代父の奥さんと姦淫したりと信仰者にあるまじき行いを重ねたあげく最後はキリスト教で禁じられている自殺をしようとするところで小説はとじられている。信仰者にとって信仰こそがアイデンティティの、つまり人生の意味の基盤である。ところが信仰とは非合理なものだ。つまり自分の人生の究極の根拠が無根拠のまま宙に浮いているということで、神と真剣に向き合うなら人は心が崩れてしまうのだ。

 

ジョン・アップダイクの代表作『走れウサギ』は二十世紀後半のアメリカを代表する小説との声望を得ている。中身は奥さんが妊娠中に買春して家を出てその売春婦と同棲して奥さんは流産してしまうという、クソみたいな男を描いたものだが、出版されてすぐ評判になり批評家の中には「現代の聖者を描いた小説だ」と言ったものもいたそうだが、これにも同様の機微があるのではないか?またドストエフスキーの「罪と罰」はラスコリニコフという殺人犯の青年が主人公なのだが、この主人公が親密になるソーニャという娼婦の父はマルメラードフというのだが娘が体を売った金で昼間から飲んだくれるまさにクソオヤジである。ところがこいつがイエス・キリストへの信仰を語った箇所が「マルメラードフの告白」といって非常に有名で多くの文学者やキリスト教神学者が感動をこめて引用している。実のところ私は最初引用でこの告白を知り印象深くは感じたものの良くわからなかった。その後『罪と罰』を通読した時もマルメラードフにはむしろ強い反感を抱いたのだが、この告白が多くの人の感動を読んできたのはやはり彼が神と真剣に向き合いそれ故に駄目人間になっているからかもしれない。

 

人生の意味を深く掘り下げようとすること、アイデンティティや神について真剣に考えること、そうしたことはむしろ人生の意味を見失わせアイデンティティ・クライシスに陥れるのだ。

 

私は文芸評論を書くことを通じてより深い人生の意味を探求しようとしてきた。だがドンヅマリに至ってしまったようだ。私の前にはまだ文芸評論のフィールドが広がっている。つまり書きたいことはある。だがもう足が動かない。私がプロの文芸評論家としてデビュー出来ていたらまた違っただろうが、残念ながらそれはかなわなかった。私は本気で自分の書いた四篇の文芸評論を近代日本の文芸批評の歴史の最高の達成であると考えている。このフィールドから撤退するのは本当に身を切られるほどつらい。傍から見たら全く無名のブロガーに過ぎないのだから滑稽千万だろうが私は本当に悲しいのだ。

 

だが私はこれから小説の創作に手を染めようと思う。文芸評論がアイデンティティを深く掘り下げることだとするなら小説とは逆に虚構の中にアイデンティティを築いていく作業ではないか?文芸評論を執筆し小説と向き合ってきた経験からそう考えるのである。良い小説を書けるかわからない。小説家としての才能なんかないかもしれない。だが私はもうすでにプロの物書きになることをほとんど諦めている。なら他の人が読んだらゴミそのものであろうと自分が書くことによって楽になったり楽しかったりすればそれで十分ではないか。

 

色々一人で書いて行って「良いな」と思えるものができたら小説の新人賞に応募してみよう。落選したらこのブログにアップしよう。それすらいつにことになるかよくわからない。結局小説家としてもデビューできない公算が非常に大である。だがデビューできなくても執筆で人生が生き易くなるならそれでよい。小説の道でも行き詰まりに陥り人生が苦しくなることに気をつけながら、基本的にはのほほんと気ままに小説のフィールドを歩んでいきたい。いつかまた文芸評論を書けるようになるならそれもまた良し。

 

このブログの更新はすっかり間遠になってしまったが当面はこんなものだろう。だがその前に書きかけの『吾輩は猫である』論があるので少しの分量だがそれをアップしたい。続きを書くのがいつになるかわからないので。また新保祐司の『内村鑑三』は私に甚大な影響を与えたが、いつからか根本的な所が間違っている書物ではないかと考えるようになった。きちんとした内村鑑三論を書いたらその中で触れるつもりであったが、それもいつのことになるかわからないので『猫』論をアップしたらその次にこの本についても簡単に触れようと思う。